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「一首鑑賞」-187

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

187.ひとがひとを恋はむ奇習を廃しつつ昼さみどりの雨降りしきる

 (川野芽生)

 

 この歌に出会ったのは、瀬戸夏子の『はつなつみずうみ分光器』だったかもしれません。川野芽生の歌集が絶賛されていることは知っていたのですが、歌集そのものを読んだことはなくて。

 

 時々、同じジャンルの本を読み漁ってしまうブームがあります。ミステリーとかフェミニズムとかAIとか歴史とか本当に色々なんですけど、最近(この記事書いてた頃)一穂ミチのBL本を片っ端から読み返していて、『さみしさのレシピ』とか『ふったらどしゃぶり』を読んでいてこの歌のことが頭に浮かびました。

 『ふったらどしゃぶり』は、同棲中の恋人(女性)に拒否されているためにセックスレスの状態にあるA(男性)と、思い合ってはいるんだけどある事情から恋人同士にはなれない友人(男性)と暮らしているB(男性)が身体の関係を持ったことから惹かれ合い…、という内容なんですけど、「恋愛」と「セックス」がすごく丁寧に描写され、身体の関係が心の恋に発展していく様子が描かれています。「恋愛小説」という文脈において、「心の恋」>「身体の恋」という命題に対するアンチテーゼというか。

 だけど、川野芽生の歌を読んで(というよりも「アロマンティック」「アセクシャル」という存在に日が当たるようになって)、「心の恋があれば肉体関係はなくてもよい」、もしくは「肉体関係を結ぶことでしか分かち合えない愛情がある」という二方向から物事を捉えるだけでは十分でないな、と感じるようになりました。

 

 川野芽生はアロマンティックかつアセクシャルであることを公言しているそうです。

 

いつ自分がさうだと気づきましたか、と入国審査のやうに問はれつ

 

という歌があります。

 例えば同性愛やトランスジェンダーといった性的マイノリティに比べて特にアロマンティック、アセクシャルが難しいなって思うのは、「ない」というのは証明しようがないという点でしょうか。「まだ知らないだけ」「いつかは芽生えるはず」という偏見やプレッシャーに晒され続けるという面もあるし、またあるいは実際に「まだ知らないだけ」の人が性的マイノリティを名乗ることによって結果的にクィアベイティングとなるという側面の難しさもあると思う。私も実際に10代前半の頃一生恋愛はしないと思っていた時期があったので、特に女性の多くは身体が女性になっていくことや女として見られることへの抵抗感もあって、自分は性的マイノリティ(アセクシャルやノンバイナリー)かもしれないと考える時期があるのではないだろうか。決してレアな現象ではないと思います。

 それに、現実的には性志向は変わることもあるわけです。私ももしかしたら60代とかになったらアロマンティック、アセクシャルになるかもしれないし。こういう、「かつてあったけど今はない」っていうのはどういうカテゴリーに入るんだろうか。もし一度でも恋をしたらアロマンティックではない、一度でも同性を好きになったらヘテロセクシャルではない、みたいな捉え方だとすると、実は多くの人がバイセクシャルに相当するような気もしますし。

 あと、恋愛感情を持たない人、性欲があまりない人って実はたくさんいるんだと思うんですよね。女性のことを性的に消費するだけの存在と思っている男性の大部分は、性欲はあっても恋愛感情はない人(むしろミソジニー)だと思ってるし、性欲が女性に向かっているからといって「異性愛者」とは呼びたくないような男性はたくさんいます。逆にロマンティックな感情を持って交際しても、積極的にセックスをしたいわけではないという人もたくさんいると思う。そういう多くの人たちと完全な「アロマンティック」「アセクシャル」の人たちは実はグラデーションで、明確には区別できないんじゃないかな。過去には社会的に「結婚して子を持つもの」ってことになってたからそうしてました、って人も多くいると思うし。

 まあそうはいってもやっぱり「アロマンティックである」という人に向かって(恋愛感情を、あるいはセックスの快楽を)「まだ知らないだけ」と言うのはハラスメントそのものだなとは思うのですが。

 

 アロマンティックでかつアセクシャルであるというのはある意味とても分かりやすい立ち位置ですし、アセクシャルではないがアロマンティックであるということは少なくないように思われますが、アロマンティックではないがアセクシャルである、という場合はややこしくなりますよね。

 この場合はロマンティックな結びつきの(あるいはかつてそうだった)相手とどう関わるか、という問題が生じます。特にややこしいなって思うのは、別に恋愛感情も性欲もなくても行為は可能だということなんですよね。だから、「相手がしたいならしたらいいじゃない」ってことになっちゃう。それができないのは相手に悪いよ、みたいな。あるいは、アセクシャルでない人間がアセクシャルに対して勝手に引け目を感じているという面もあると思うんです。性欲で生きてるみたいで気持ち悪いと軽蔑されるのでは、みたいな。「ひとがひとを恋はむ奇習」という書き方も、場合によっては「恋愛脳かよ」みたいな侮蔑として受け取られるかもしれない。

 

無性愛者(アセクシュアル)のひとはやつぱりつめたい、とあなたもいつか言ふな だありや

 

 上の『ふったらどしゃぶり』では、Aの同棲中の恋人はアセクシャル的な存在として描かれています。彼女はAのことを大切に思っていて、たった一人の恋人として大事にしていて、彼と過ごす将来の夢も抱いていて、一緒に暮らしていて、でもセックスだけはしたくない、という。で、Aはその恋人に対してすごく鬱屈した感情を抱いている。どれほど好きで大切でもセックスを拒否されると自分自身を拒絶されるように傷つくし、無垢な恋人に対して性欲を向ける存在みたいにみなされるのも辛いと思ってる。つまり、セックスをしないこと(相手を性的に拒絶すること)で心の繋がりも脆くなってしまうわけです。

 だけど、アセクシャルだからつめたい、ってことではないと思うんですよね。もしロマンティックな繋がりがある相手だったなら、セックスの問題に対して誠実に向き合うということはできる。折り合いが付かない場合は恋人としてはやっていけなくなるかもしれませんが。上記のAについても、もし恋人が自分がアセクシャルであることを認めて誠実に話し合っていたら、「自分自身が拒絶されている」とは思わなかったかもしれない。

 この歌の「あなたもいつか言うな」という言葉からは、「かつて誰かに言われた」ということが推測されます。「アセクシャルのひとはつめたい」と彼女に言ったのはどういう関係の人間だったんだろうか。この人はアロマンティックを公言しているから、ロマンティックな関係の相手ではないはずです。ロマンティックな関係にない相手がアセクシャルであることでなにか被害を被るかって言われたら部外者にとってはそうではないと思うのですが、こう言ったのはもしかするとこの人に思いを寄せていた人なのかもしれません。

 

 今まで、同性愛などの性的マイノリティのおかれた状況を描いた作品に触れて色々なことを考えてきました。性的マイノリティの当事者は、必ずしも恋愛を主題とした状況でなくても、マジョリティとは興味の対象が違うことで友人関係を築きにくかったり…という「生きづらさ」が色んな作品で描かれていて、『きのう何食べた?』(よしながふみ)ではケンジが中高時代にジャニオタだったから男友達と話が合わなかった、とか、gleeではカートがティアラやハイヒールが好きでいじめにあっていた、という描写がされています。アセクシャルの場合は、例えば恋愛小説や恋愛漫画に興味がないために女の子のコミュニティに入りにくい、もしくはどんなに好きになられてもその思いにこたえることはできない、という状況は容易に想像ができます。それを考えると、「つめたい」という言葉を投げかけられたのはまだ若い頃なのかもしれない。

 ただ、実際には、女同士の関係性でも恋愛の話をしない友人づきあいは全然普通にあるし(私自身子供の頃からあんまり恋の話とか友達としないタイプだったし友達もそういうタイプの子が多かったから、恋愛に興味なくて困る、という状況になったことはなかったです)、男女でもロマンティックな関係を互いに全く想定しない友情はあり得ると思うんだよね。「恋やおしゃれに興味ないから女友達できない」みたいなのはフィクションの中だけな気がするよ。

 年を取るとむしろ恋愛を主題とした状況に身を置くことは少なくなるし、世の中には友愛、親子愛など性を介さない愛情があふれていることに気づきます。アセクシャルの人はつめたい、ということはないでしょう。というか、どういうセクシャリティであるかと人間として「つめたい」か否かは無関係に思われます。「ひとがひとを恋はむ奇習」という言葉にはある意味「つめたさ」を感じなくもないですが、マイノリティとして強い言葉を使わざるを得ない状況があるのは想像できるし、そんな必要がない時代になるといいのかもしれません。月並みなまとめですが…。

 

 

きみをまた歌の底まで連れてくる冷えたベッドを愛していても (yuifall)