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ぼくの短歌ノート-「するときは球体関節」 感想

講談社 穂村 弘著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

するときは球体関節

 

 かといってこっち系統の歌も分かるかって言ったら微妙…。てかこの章の感想、色々考えてたらウザいくらい長くなりました。。

 

したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ (岡崎裕美子)

 

するときは球体関節、のわけもなく骨軋みたる今朝の通学 (野口あや子)

 

もちあげたりもどされたりするふとももがみえる

せんぷうき

強でまわってる (今橋愛)

 

 これらの歌について、解説には

 

これらの三首においては、「自転車」や「球体関節(をもつ人形)」や「せんぷうき」などのモノたちと、人間の女である自らの性的な身体意識がシンクロしていることがわかる。

 

とあります。そして、

 

 (前略)ひとりの人間として主体的に生きられると信じて、そのように生きた結果、彼女たちの性的な身体感覚はモノ化したことになる。

 その理由ははっきりとはわからない。ただ、男は自らの体をこのように詠わないし、詠ってもニュアンスが変わって、詩的な衝撃は発生し難いことが予想される。そこに痛みの感覚がないからだ。女性の身体感覚のモノ化とは、一方に現代の主体的な生の可能性があり、その一方で依然として男女の性的非対称性があるという、引き裂かれた現状と関わりがあるのではないか。

 

とあります。

 

 うーん。。この章に関しては自分の考えが全然まとまってません。

 

 

 最近受けたある講義で「ひとのモノ化」ということを取り上げていて、それによれば

 

典型的にはひと(person)のように、モノではないものをモノとして扱うのがモノ化である。

(江口聡 性的モノ化と性の倫理学 京都女子大学現代社会学研究 2006:9:135-150)

 

Orehek and Weaverlingの定義によれば、人々は、ある目標を達成するための手段として、モノと同じ様な扱われ方をされ、他者の目標実現における有用性に応じて評価されたときに、「モノ」化されていることになる。

(Edward Orehek and Casey G. Weaverling. On the Nature of Objectification: Implications of Considering People as Means to Goals. Perspectives on Psychological Science 2017, Vol.12(5) 719-730.)

 

ということみたいです。

 

 すみませんが原典をFull Textであたったわけではないのであれなんですけど、一般的に考えられる性的な「モノ化」というのは、男性を主体、女性を客体として、女性の人格を無視してその肉体を性的な対象物、「モノ」として扱う、ということなんだと思います。そして穂村弘が言うところの「男女の性的非対称性」とは、まあ一般的には女性は男性の肉体を「モノ」として性的に消費しないから、ということかと思われます。

 ただ、以前『桜前線開架宣言』の岡崎裕美子の感想でもちょっと触れましたが、女性を主体、男性を客体として、男性の肉体を、(性的消費ではなくて)自分を傷つけるための「モノ」として用いる、ということはあると思う。

 でもどちらにせよそこにはやっぱり「性的非対称性」があって、男性にとっては(あるいはそれを傍観する第三者にとっては)女性を肉体的に消費することにも、女性に肉体的に消費されることにも「痛みの感覚」は薄いのかもしれない。逆に女性にとっては(あるいは第三者にとっては)男性に肉体的に消費されること、あるいは男性を肉体的に消費することいずれにも一種の「痛みの感覚」は伴ってくるのかもしれない。

 いずれも、あくまで一般論ですけど。

 

 ここではこれらの歌を三首まとめて「自らの体をモノと同一視しながら」と解説されているのですが、確かに全て、やや受動的な身体感覚と「モノ」との同一視がありますけど、それぞれ全然毛色が違っているような感じもするんですよね。そして、個人的には上述の「男女の性的非対称性」「モノ化」「痛みの感覚」に当てはまるのは岡崎裕美子の歌だけなんじゃないかと思います。

 

するときは球体関節、のわけもなく骨軋みたる今朝の通学 (野口あや子)

 

 この作品なんか、いやー、無茶な体位でがんばっちゃったなー、あいつ(球体関節の人形)だったら楽ちんだったのになーみたいな歌に読めなくもないし(笑)、むしろここで引っかかるのは「通学」なんだよな。これ、「球体関節」を含めて他の言葉が全部一緒でも、「通学」が「通勤」に変わってたら、「痛みの感覚」は相当薄れると思う。

 つまりこの歌から読み取れるのは、この歌の主人公はおそらく高校生で、前日に誰かと“骨が軋む”ような激しいセックスをした、ってことだよね。このセックスが、この人にとっては日常の取るに足らない出来事なのか、高校生なりに愛ゆえなのか、あるいはパパ活とかそういうちょっと不穏な感じなのか、それとも激しいセックスする相手がいるんですよ、っていうイキった感じなのか(笑)は分からないのですが、でもここにもし「痛みの感覚」を読み取るとしたら、それはこの人の体が人形に例えられているからではないと思うんだ。10代の性行為に纏わりつく自傷行為的な匂いというか、これは、「女性の」、というよりも「少女の」身体を人形的に、投げ出すように扱うことへの大人目線の痛みなんだと思います。そのセックスがどういうセックスであれ、身体大事にしなよ、みたいな…。「本当は嫌なんだけど…」みたいなのも含めて、本当にあなたの自由意志なんだよね?というかさ…。

 これは、「少女の」、というよりも少年も含めて「子どもの」肉体は彼ら/彼女ら自身だけのものではない、というような社会的な発想が根底にあるのかもしれません。社会全体で慈しみ守らなくてはならない、というような。

 

 

 今橋愛の短歌については、これもまだ若い2人という感じがするのですが、こちらはそういった痛い感じはあまりしません。

 

もちあげたりもどされたりするふとももがみえる

せんぷうき

強でまわってる (今橋愛)

 

 「せんぷうき」が回る部屋なんだから、多分それほど裕福でない若い2人、まあ想像するに彼氏は20歳そこそこの貧乏学生で、彼女はもしかしたら高校生~やっぱり20歳そこそこ、って雰囲気なのですが、柔らかい口調の歌だからか、相手に身を任せてリラックスしてる感じがするし、身体を預けられる相手、愛情のある相手とのセックスなんだな、という感じを受けて、「痛みの感覚」は感じないんだよなー。

 この歌の2人は、おそらくまだそれほど行為に慣れてないんじゃないかな。物心つくくらいの年齢を過ぎると、他人に完全に身を委ねる、誰かに身体を動かされる、ということはほとんどなくなるので、彼女はそれを物心ついてからほとんど初めて経験して面白がっている感じがします。で、愛情がありそうなのに気が散った感じとか、彼氏も彼女が気が散っていることに全然気づいてない感じとか、全部が経験の浅い若い2人って気がする。

 多分、穂村弘とか山田航がピックアップしてなかったら個人的にはそれほど引っかからない歌なような…。少なくとも「痛み」は感じないなー。なんつーか、「モノ化」といってもロボットダンスみたいな感覚ですね(笑)。自らの意思がある(成人?)女性が主体的に行っている性行為で、むしろ「もちあげたりもどされたりする」のを楽しんでるような感じがする。男の人だからリリカルに読むのかな。それとも歌集でまとめて読むとまた違った印象を受けるのかしら。あきらかに未成年であんまり愛情がないとかさ…。それとも性行為に対する私の感性が極めて鈍化しているのか…。

 

 昔、山田詠美の『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』という短編集の『ME AND MRS. JONES』を読んでいて、女の人はセックスの時それに没頭するかしないかは気持ちの問題なんだ、って思ったことがあって。本能、って言ったらつまらないかもしれないですけど、例えばセックスの最中でも赤ちゃんの泣き声とか聞き取れるような身体になってるんだと思うんです。そこでやめるかやめないかは選択だとしても。もしくはそういった環境とか精神的な愛情とか全てが整ってないと没頭できないっていうか。

 今橋愛の歌は確かにセックスの最中に気が散っている感じで、わりと冷静にせんぷうきの動きと自分のふとももの動きを重ね合わせてみてるんだな、ということは読み取れるのですが、それは「女性の身体とモノがシンクロ」=「痛みの感覚」には繋がらないんだよな…。「おおっ!せんぷうきみたいに足が自動で動いてる!面白っ!」みたいなイメージですね(笑)。

 もしかしたら男性はセックスの最中こんなに気が散っていないのかもしれない、だからこの一種の冷静さを怖いと思うのかも、とも考えたのですが、

 

だんだんと冗長になるセックスの明日何時に起きるんだっけ  (望月裕二郎)

 

みたいな歌読んでると、男の人もけっこう気は散ってるんじゃないかなって気もします(笑)。

 

 

 難しいなって思うのは岡崎裕美子の歌です。

 

したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ (岡崎裕美子)

 

 私は以前『桜前線開架宣言』の感想で、「自傷行為としてのセックス」について触れたのですが、もしそういう目的の行為であれば、自分ではなくて相手の身体が「モノ」なんだと思ってた。つまりは、リストカットのために使うナイフと同じように、相手の人格を無視して男性の身体を使って自分を傷つけてるんだって。つまり、根底にあるスピリットとしては女性が男性の肉体を「モノ」化して消費しているってことなんだと思ってたんです。

 

いずれ産む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく (岡崎裕美子)

 

なんかはそんな感じして、相手が「針」だから自分はやっぱり痛い思いをしてて、それは自傷行為なんだと思うんだよな。

 だけど、この人は自分を「わたくしのからだではない」「からっぽだったわれ」「容れ物」って詠い方もしてるよね。

 

なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として (岡崎裕美子)

 

っていうのもあって、この人は自分が「からっぽの容れ物」になるために(そういう目的で)セックスしてるんじゃないかって感じがするんです。

 その場合自分も「モノ」(客体)なんだけど、主体は相手の男性なんだろうか?やっぱり自分自身なんじゃないかって気がします。そしてやっぱりセックスは単なる手段なわけだから、男性も「モノ」化している感じがします。あと、「痛みの感覚」ということについて、自らを「モノ」的に扱われることに対する心の痛みと読めるのは分かるんだけど、心であれ身体であれ、痛みの感覚があったらすでに「モノ」ではないのでは?という気もして…。

 

 この人は傷つきたいんだろうか、それとも痛みを取り除きたいんだろうか?「からっぽの容れ物」は痛みを感じないよね。自分を破壊したい、めちゃくちゃにしたい、って思うとき、それは自傷行為なはずだけど、「モノ」であれば痛くないから。「自転車」の歌は、自分を撤去予告されている自転車に重ねているのかもしれないけど、自転車は痛みを感じないはずですよね。私も彼にとっては駅前の自転車と一緒だな、って思いながら、感情が遠い感じがする。だから「針」の歌も、相手は「針」だけど自分も「標本」か何かかもしれないし本当は痛くないのかもしれない、痛いって勝手に思ってるのはこっちの都合かもしれない、とも思った。

 でもやっぱり、自分は「からっぽの容れ物」ではない、ってことといつかは向き合って、ダイレクトに痛みを味わわなくちゃない日が来るんじゃないのかなって気がしてます。自分を「モノ化」することによって取り除ける痛みは一瞬だし。リストカットしながら麻酔打ってて麻酔中毒になってるみたいな感じかな…。ちょっとうまく説明できてないな…。

 

 この歌は、セックスをしてあまり寝ていない朝に相手の家もしくはホテルから帰るところで、駅前の放置自転車を見ている、という光景で、この、持ち主がいない、あるいは大切にされていない、乗り捨て、という点で象徴的な「放置自転車」と「私」が重ね合わせられている、というのは分かります。“乗り捨て”される私、という観点から読めば、解説にあるように

 

「自転車」などのモノたちと、人間の女である自らの性的な身体意識がシンクロしている。

 

という読み方はできると思う。だけど、これは、精神的な感覚とのリンクとしても読めるんじゃないかなって思うんだよね。この歌、女性が主人公だと思って読むとこんな感じのストーリーなんですけど↓

 

 金曜の夜に飲みすぎて行きずりの相手とホテルへ行って、朝になって、どうでもいい相手と眠ったりする気になれなくて、さっさと帰って家でゆっくりしたい、と思って疲れてるけど外へ出て、眩しいな、怠いな、って思いながら駅まで歩いて、そこで撤去予告の紙が貼られた自転車を見ながら、あー、私も持ち主のいない乗り捨てされた自転車だな、って思う。

 

みたいな。でもこれは、男性が主人公としても読める歌だなって思ってて、その場合こんな感じ↓

 

 彼女はサービス業で自分はサラリーマンで休みがなかなか合わなくて、彼女の休みの前日の深夜に急に呼び出される。「私は明日休みだから」ってセックスして、彼女は寝てるけど自分はこれから自宅より遠い彼女の家から通勤しなきゃならなくて、ほとんど寝ないまま駅へ向かう。ああ、疲れたな、って思いながら目に入るのが撤去予告の紙が貼られた自転車で、あー、彼女にとって俺はこういう存在だなって。一応所有者がいる自転車だけど駐輪場にお金払ってとめるほどの存在じゃなく、放置して、撤去されたらそれまで、むしろ処分代かからなくてラッキー、って感じかも。

 

っていう。「した」相手っていうのはごくまっとうに考えると親密な関係なわけで、その人にとって自分は撤去される運命の自転車と同じ存在、という精神的な感覚とリンクする感じも受けます。

 

 ちなみに男性が自らの性的な身体感覚をモノ化して詠っている歌でぱっと思い浮かぶのは

 

あたたかいからだのなかに倒れたいバターナイフがめりこむように  (吉川宏志

 

ですかね。確かに女性の詠っている歌とはニュアンスが異なっており、能動的「モノ化」ですけど、ここにも詩的な衝撃はあるよなーって思います。女性の歌で能動的「モノ化」というと

 

チェロを抱くように抱かせてなるものかこの風琴はおのずから鳴る  (太田美和)

 

が思い浮かびます。

 ていうか、最終的に身も蓋もないこと言っちゃうと、自分の肉体を含めて何かをモノに例えることってよくあるし、むしろ作者が穂村弘の解説読んでびっくりしてるんじゃないかって勝手に思った(笑)。読み深いな!って(笑)。

 

 

つらぬいてまた取り換えてきみなんか300円のピアスと同じ (yuifall)

16歳 ほしかったのは愛じゃない きみをナイフにつかってごめん (yuifall)

 

 

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