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「一首鑑賞」-80

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

80.担架にて運ばれおらぶ父の声妹は録りいまだに聞かず

 (岡崎裕美子)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 岡崎裕美子は「したあとの朝日はだるい」が有名すぎて、性愛(?)の歌以外に出会ったことがあまりなかったのですが、ここで父の死を詠んだ連作に出会い、面白いなと思いました。「父運ぶ」は17首から成る連作だそうです。染野太朗が他に引用しているのは

 

死に近き父をなにかに喩えんと吾は病室の外へ出てゆく

父がまだ死にたくないと暴れるか二月の吹雪いよいよやまず

モニターがゼロになるとき一斉にああ、と言いたりわれら家族は

産めなどと吾には言わぬ父なりき棺を雪の中へ差し出す

飼いていし兎を「今夜食べるぞ」と取り上げし父 今、墓にいる

いま産めば父を産むかも ひそやかに検査薬浸す六月の朝

 

こういう歌で、これに対して

 

「父を運ぶ」を読んでおもしろいなと思ったのが、父への心情やスタンスの取り方がついによくわからなかったということだ。(中略)一首一首が「悲しい」とか「愛憎」とかいったラベリングを避けているように僕には思えた。

どこかに暴力的なところがあって、常識からはちょっとはみ出すようなところがあって、……というような「父」は読みとれると思うのだが、その父へ心情、態度がどうにもはっきりしないように思う。「産めなどと吾には言わぬ」ということがこの人にとって、例えば「うれしいこと」だったのか「つらいこと」だったのか、僕にはわからない。「雪に差し出す」というところに、父親に対するすこし攻撃的な心情を読みとってもよいのかもしれないが、それが「産めと言ってほしかった」からなのか「産めと言ってほしくなかった」からなのか、わからない気がする。(中略)「いま産めば父を産むかも」も、そのような体感や想像が結局この人にとってどういう意味・価値をもつのか、どうにも見えてこない。

 

と書いています。

 

 私は、単に事実として読みました。

 死に近づいた父親を何かに喩えようとして病室を出るのは、見ているのが辛いからとかそういうんじゃなくて、本当にそこから、この状況から、何かを喩えよう、あるいは歌を作ろうと思ったんじゃないかな。客観的に見れば、「父の死」って一生に一度のことじゃないですか。

 父が「暴れる」のは性格が暴力的とかじゃなくてせん妄のような気がしますし(むしろ、父もこうなってしまったか…、もうそろそろかな…って感じがする)、モニターがゼロになるときの「ああ」は、悲しみの他に、もう待たなくてもいい、の「ああ」な感じがします。

 お父さんは明らかに倒れて運ばれてて手の施し様がなく、それを家族は病室でずっと見守っていたわけで、徐々に血圧が下がって呼吸が少なくなる中で、(多分悲しみは後から何度でもやってくるだろうけど、今は)この状況いつまで続くんだろう、とか、止まるのを待っているわけでは決してないけど、止まらなければいつまでこのままなんだろう、みたいな気持ちにもなるだろうし、でもやっぱり止まってほしくなくて、そういうの全部含めて家族そろってこうして見守れてよかったという安堵とか色々混じって「ああ」だったのだと思う。やっとこの状況から(一緒に)解放された、という。

 兎を「今夜食べるぞ」もエキセントリックとは思えず、単に生きてきた時代が違う人という気がしますし(多分戦後すぐ生まれくらいなのでは?)、つまりは生死が身近なところにあった、という「今、墓にいる」なんだと思いました。

 

 分かりにくいと思ったのは、「産む」に関する歌です。この人が性愛の歌をたくさん詠んでいるという先入観もあるのかもだけど…。

 

いずれ産む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

 

って詠んでいた人です。それから何年も時は経ったのでしょうが、「産んだ」のだろうか。「産む」ことをどうとらえているのだろうか。

 「産めなどと言わぬ」ということは、産んではいないのではないかと思われます。それが「言ってほしかった」のか「言ってほしくなかった」のかと言われると、多分どっちでもなくて、「言われなくてよかった」と思っているのではないかな。私だったらそう感じます。産みたいと思っていても、そうでなくても、父が「産め」と言うような人でなくてよかったと。「雪に差し出す」は単に出棺の時に外が雪だった、という情景として読みました。でも「父を産むかも」の感慨はよく分からない。生と死が近いということを暗示しているのだろうか。生まれ変わり的な?

 ただ、(産む、産まないに関する)価値観とかそういうものを超えたところで、やはり親を思うとき、あるいは親の死を目の当たりにしたとき、自分は親の血を繋いだかということに思いを馳せるのは自然に感じます。もし「産んで」いたら、このような葛藤はもっと薄かったのかもしれない。逆に、父の面影のある子が隣にいたとしたら、「父の死」に際してここまで「父」にフォーカスできたかは疑問です。

 

 まあ実際のところ、どんな読みが正しいのかは分かりません。染野太朗は

 

ここに悲しみや無念や驚き、あるいは喜び、といったものを読みとるのだとしたら、それはあまりにも読者の「一般常識」に引きつけすぎであるように思う。心情を読み解く手がかりがいまいち見当たらない。

 

こう言っているので、私の読みは私の「一般常識」に引きつけすぎなのかもしれないです。

 でも、これらの歌の温度感に共感できる気がするんですよね。やっぱり、両親を愛していても、激しい情があるかと言われると微妙だもん。愛しているけど、当然自分より先に死ぬ存在だと認識してるし…。いずれ見送るのだろうと思っているし、多分実際直面したらとても悲しいし取り乱すだろうけど、どこかで、まあ仕方ないな、とか淡々と考える自分もいそうだなと思います。やっぱり、子供を失うとかそういうのとは違いますよね。

 

 それにしても「父の声」をどうして妹は録音したのだろうか。遺言っていうか、最後の言葉だと思ったのかな。だけどあまり意味をなさない声だったから聴き返さなかった、(それでも消さずにとっておく)というような気がしました。自分だったらとっさに「録音」するかなぁ。

 でも今の時代の人って何でも動画撮ったりするし、もしかしたら親が倒れても動画撮ったりするの普通になんのかな。それに対して、ゾッとするっていうのともまた違ってて、多分現実と少し距離があるということなんだろうなと思ってます。まあ、全然知らん人に動画撮られたら嫌だけどね…。

 

 

血族という粘ついた水溜まり覗けば誰も似た顔をして (yuifall)

 

 

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