「一首鑑賞」の注意書きです。
157.体には傷の残らぬ恋終わるノンシュガーレスガム噛みながら
(玲はる名)
「体には傷の残らぬ恋」って表現面白いな、つまり「心には傷が残った」ということと、「暴力などが原因で別れたのではない」ということが示唆されているんだろうか、と思いながら読んでいて、「ノンシュガーレスガム」に頭が混乱しました。「シュガーレスガム」ではない、ということだよね?だから、砂糖がいっぱい入ったガムだと思う。
要はこの短い文章の間に2か所も「否定」による表現が使われているわけです。おそらく直訳すると
心には傷の残った恋終わる、砂糖まみれのガム噛みながら
みたいな感じになります。
しかし今、「砂糖たっぷりのガム」ってなんて表現したらいいんだろう、と思ってググろうとしたのですが、「ガム 砂糖」で検索しても基本的にシュガーレスガムしか引っかかりません。「シュガーレスガムじゃない」みたいな表現にせざるを得ず、結局「ノンシュガーレスガム」じゃん!ってなったわ。
鑑賞文が面白かったです。
だが、甘いガムを噛み続けていれば、いつしか甘みは無くなる。ちょっと前までは糖分を含んでいたのに、その糖分を飲み下し、口の中には甘みの無いガムだけが残る。ノンシュガーではなかったけど、いつのまにかシュガーレスになった、噛みさしのガム。甘みを味わいつくしたらあとは無味。もしかしたらいくつかの恋も、同じような味かもしれない。
上句は反語的であり、下句は二重否定。こうまで廻りくどい言い方をしなければいけないのは、この恋に傷つき、諦めた自分を、まだ認めたくない心があるからではないか。幼さを感じさせる口語の使用が、主体の繊細さ、傷つきやすさを暗示する。
反語と二重否定を重ねることへの解釈が面白いですね。
おそらく前半的なこと(恋がどうこうみたいな)を言いたいだけだったら
心には傷の残った恋終わる、砂糖まみれのガム噛みながら
でよかったはずだと思う。でも、後半的な要素(反語+二重否定)があるのは、実は「まだ認めたくない」=まだこのガムは甘くて味が付いているのにどうして、みたいな気持ちもあるのかなあって思いました。「甘みを味わいつくして無味」というよりも、まだ甘いのにどうして恋は終わってしまったの、というか。あるいはガムの「甘さ」っていうのは恋人が優しかったことの暗喩かもしれず、「あなたはまだ優しいのにどうして」みたいな感じなのかな。
しかし、
甘みを味わいつくしたらあとは無味。もしかしたらいくつかの恋も、同じような味かもしれない。
ってありますけど、甘いだけの恋、甘みだけを味わいつくせる恋なんてあるんだろうか。そんな恋だったからこそ、後には何の味も残らないのだろうか。でももしそんな恋だったなら、心が傷ついたりするだろうか。
若い恋だったのかな、って気もします。あなたはこんなに優しかったのに、お互い嫌いになったわけじゃないのに、どうして別れなきゃないんだろう、って。「ノンシュガーレスガム」には、「ふーせんガム」みたいなイメージあるもん。まだ甘いガムを噛んでる子供だったから、甘いままで終わってしまった恋だったのかも。
それから、もしかしたら「体に傷が残らない恋」は、セックスしなかったということかもしれない、とも思いました。
鑑賞文にはもう一首引用されていて、
ラブ! ダーリン 動詞が好きよ、なによりも。だってうごうごするんですもの。
自由奔放に見えて、高度な修辞意識に満ちた歌だと思う。「うごうごする」にはどこか、セクシャルなイメージがある。
と書かれています。
「うごうごする」でググったら『ウゴウゴルーガ』っていう昔のTV番組がヒットしたのですが、「みかん星人」とか『東京は夜の七時』(PIZZICATO FIVE)ってこの番組発だったんだ…。初めて知った。
恋じゃなく傷にしたんだ ぐちゃぐちゃの雪と紫陽花色の指先 (yuifall)