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「一首鑑賞」-85

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

85.にんげんはそう簡単には死なぬゆえ桜の下に祖母を立たしむ

 (後藤由紀恵)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で棚木恒寿が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 実生活では認知症の祖母の介護を長年してきていたのだそうです。鑑賞文には

 

「ゆえ」は因果関係を表すが、ここではその意味は薄く、軽い順接のように下の句につながってゆく。衰えつつ晩年を送る祖母を桜の下にまで連れてきて、立たせてみる。祖母の仕草の詳細は描かれず、ここでふっとカメラが引かれて満開のさくらの下に立ちあがる祖母の映像が浮かび上がる。はなやかな桜と、衰えた祖母と。なにか映画の一シーンのようでもあり、心に沁みる光景だ。

 

とあります。

 祖母と桜、それが対比される光景が頭に浮かびますが、その一方で、この「ゆえ」にはやっぱり意味があるんじゃないのかな、って気もする。桜の下に立てばきっと命を取られるだろう、でも、にんげんはそう簡単には死なないものだ、だからおばあちゃん、ちょっとそこに立ってみて、っていう。

 「桜の木の下に死体」とか「桜に攫われる」とか「花の下にて春死なむ」とかすでに慣用句レベルですが、きっと桜と死はイメージとして強く結びついているんじゃないだろうか。だから、認知症の祖母に桜を見せてあげたいけど、桜に会えば連れていかれるかもしれない、って気持ちがどこかにあって、「いや、にんげんはそう簡単には死なない」と思いながら連れてくる、というか。

 実際、長年認知症の介護を続けていれば、「にんげんってそう簡単には死なないんだな」って思ってしまう気がする。どんなに大切な人であっても、いつ終わるのか?いつこの生活から解放されるのか?って考えてしまわないことはないだろう。それが数か月とかならともかく、1年、2年、10年と積み重なっていくと、こんなに寝たきりなのに、私のことも分からないのに、死ぬまでの距離って長いんだなぁ、って思ってしまうんじゃないだろうか。

 だからこの「にんげんはそう簡単には死なぬ」がとても重くて、たぶん、桜なんかに連れていかれるようなおばあちゃんじゃないんです。そんなにか弱かったら今まで生きてないよ、「だから」、ここに立ってみて、っていう、やっぱり順接の「ゆえ」なんだと思う。

 

晶子にもかの子にもなれぬわたくしと祖母とが見上ぐ今年の桜を

 

今はまだ大丈夫だという言い訳を母はいつまで使うのだろう

 

という歌も紹介されています。

 

 他にもたくさんの歌が引用されているのですが、

 

声のみに君を知りゆくこの冬の栞とならんわたくしの耳

 

これが特に心に残りました。「声のみに君を知りゆく」ってどういう意味なんだろうな。2004年の歌集だそうですが、誰かと「声だけで会う」ってことはあるのだろうか。

 もしかすると、これは好きなラジオのパーソナリティとか歌手とか声優とかそういう可能性もあるのかな、って思いながら読みましたが、「わたくしの耳」が「この冬の栞」になる、っていう表現がとても好きです。あなたの声を知ったこの耳を冬に挟んでおくわ、あなたの声を聞けばいつでもあの冬に戻れるの、というか。ひとつの音楽がひとつの思い出と直接的に繋がっていることってありますよね。

 

 

合法と違法両者のバージョンで自ら選ぶ死を夢想する (yuifall)