いろいろ感想を書いてみるブログ

短歌と洋楽和訳メインのブログで、海外ドラマ感想もあります

「一首鑑賞」-24

「一首鑑賞」の注意書きです。

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24. てのひらのカーブに卵当てるとき月の公転軌道を思う

 (伊波真人)

 

 工藤玲音の記事から続けて「橄欖追放」を読んでいて、『ナイトフライト』という歌集タイトルに心惹かれてクリックしてみました。紹介されている短歌もすごく好みで、ラッキーだったなと思いました。

petalismos.net

 知らなかったのですが、この人は吉田隼人の『忘却のための試論』と同時に角川短歌賞を受賞されているそうです。『桜前線開架宣言』でも『短歌タイムカプセル』でも吉田隼人は取り上げられていたのですが、この人については触れられていなかったので、今までずっと知らなくてもったいないことをしたなーと。本業は映像ディレクター、デザイナー、フォトグラファーとのことで、その名称だけでくらくらしますね。

 解説には

 

月の軌道は円ではなく楕円であり、月は地球に近づいたり遠くなったりしている。最も近づいたときがスーパー・ムーンである。この歌では月の軌道を卵の形状に重ねている。卵の歌はずいぶん収集しているが、月の軌道に喩えた歌は初めてだ。

 

とあります。卵に手を添えていて、月の公転軌道を思う、という言葉と「フォトグラファー」というイメージから、カメラのシャッターを開けっ放しにして星の動きを撮ったような写真を思い浮かべました。まあ、あれは地球の自転だから全然違うんだけど…。卵のつるっとしてひんやりした感じはやっぱり地球より月のイメージですね。しかし、そのまま形状ではなくて軌道を思い浮かべる、という詩的イメージの高さにどきどきしました。

 この人の歌について、東郷雄二は

 

一読してわかるように、語法は平易で歌意にブレもなく、過不足なく言葉が使われている。(中略)伊波の歌の魅力は言葉に過度の負荷をかけない表現の素直さにあると思う。前衛短歌の影響を受けた人は多かれ少なかれ言葉に負荷をかける。それが言葉の詩的強度となって現れることもあるのだが、伊波の歌にはそのような傾向が希薄である。(中略)そのために損をすることもあり、角川短歌賞の選考座談会では、「一連全体に前に出てくるインパクトがなかった」とか、「強いパワーがない」などという感想をくらっている。しかしながらこれもまたひとつの個性にはちがいない。

 

と書いています。

 この「インパクト」「パワー」の(おそらくは相対的な)少なさから、今までアンソロジー本で取り上げられてこなかったのかもしれません。でも私は好きだな。

 

スプーンがカップの底に当たるときカプチーノにも音階がある

 

なんてすごく好きです。解説に

 

カップカプチーノを注いだときはまだカップが冷えているので、スプーンで叩いたときの音程が低い。しかし徐々にカップが暖まってくると音程が上がる。そういう微細な現象を捉えたところが秀逸である。

 

とあり、温度が上昇することによる「音階」に着目されていますが、私はとっさにカフェでカプチーノを飲んでいるシーンをイメージしたので、カップいっぱいからなくなっていくにつれて水位?が下がっていくことで「音階」が変わっていくのかと思いました。あるいは、温度であれば、冷えていくことで。この読み方の違いは、

カプチーノを自分で作ってカップに注ぐかどうか

カプチーノを飲んでいる前だけではなく、飲みながらその都度(水位が変わるたびに)スプーンでかき混ぜるかどうか

というカプチーノに対する向き合い方の違いが反映されている感じがします。東郷雄二はフランス語の研究者であるそうですので、カプチーノを自分で淹れて、しかも私のように泡を掬って飲んだりはしないのかも(笑)。

 

 

月は今アネクメーネを横切って グッド・フライト、グッド・ナイト (yuifall)

*マーク・ヴァンホーナッカー『グッド・フライト、グッド・ナイト』

 

「一首鑑賞」-23

「一首鑑賞」の注意書きです。

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23.マヨネーズのふしゅーという溜息を星の口から聞いてしまった

     (蒼井杏)

 

 同じ「マヨネーズ」と「星」の組み合わせで面白いなって思ったのがこの歌です。これも『橄欖追放』で出会いました。

petalismos.net

 確かに、中身が減ってきたマヨネーズの胴体を押すと「ふしゅー」ってなるんですよね。「マヨネーズ」と「星」の組み合わせがなんとなく寂しいもののように感じられます。

 この人の歌、オノマトペに着目して紹介されていて面白かったです。この歌では「ふしゅー」ですけど、他に「れん びん れん びん」「ぽりん」「あわあわうふふ」「んんっ」「ぱきっぱきっ」などの歌が取り上げられています。気になった方は引用元のページもしくは歌集をぜひ。

 

 冒頭に取り上げられている

 

縦向きの見本見ながら横向きに落ちてくるのを待つ缶コーヒー

 

読んで、そうだな!って思った。解説に

 

 一読して「アッ!」と思った歌だ。なるほど言われてみれば確かに自販機の缶入り飲料の見本は縦向きにディスプレイされている。しかし金を投入しボタンを押して出て来る現物は横向きである。当たり前と言えばそうなのだが、「なるほど言われてみれば」感が強い。短歌はこのように日常の些細なことを取り上げて「アッ」と思わせるのに適した詩型だ。そして一首の明意 (explicite meaning)、語用論で言うところの「言われたこと」(what is said)の解釈が一応終了すると、一首は「短歌的喩」の作動によって暗意 (implicite meaning)のレベルへと跳躍する。掲出歌で言えばそれは、「外見と内実の相違」「理想の夢と現実とのくいちがい」ということになるのだろうが、たぶんこれは深読みのしすぎで作者の意図はそこにはあるまい。

 

とありました。

 

 個人的には「今まで意識してなかったけど確かにそうだよなー」短歌の一種として、中澤系の

 

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ

 

を連想しました。

 

 実はこの人のページに引っかかったのは、黒瀬珂瀾などが昔発行していた同人誌「sai」でサイト内検索したからなのですが、どこに「sai」があるんだ、と思っていたら上記の(what is said)の「sai」ですね、おそらく。『瀬戸際レモン』という歌集タイトルも面白いし、偶然だったのですが出会えてよかったと思いました。

 

 それにしても、歌集タイトルってみんな自分で決めてるのかなー。pixivに載せてる二次小説ですらタイトルが思い浮かばない自分としては、どこからこんなインスピレーションを得ているのか不思議でなりません。タイトルとかペンネームとか考えるのすっごく苦手で、このブログタイトルとか見ていただければどれほどセンスがないか一目瞭然かと思われますね(笑)。

 

 

裏返る空の音色が気付かせる今はもうない前歯の痛み (yuifall)

 

 

「一首鑑賞」-13 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-22

「一首鑑賞」の注意書きです。

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22.死はずっと遠くわたしはマヨネーズが星形に出る国に生まれた

 (工藤玲音)

 

 前回の続きです。

petalismos.net

 解説に

 

四首目、若い人にとって死は遠くに霞んで見えない。また確かにマヨネーズが星形に出る国は日本くらいのものだろう。日本はなくてもよい気配りに溢れた国である。関係のないこのふたつを繋げたところがおもしろい。

 

とあります。

 マヨネーズって確かに星型に絞り出されてくるようなイメージがありましたが、家にあったマヨネーズは直線状でした。お好み焼きとかにばーってかけるやつはやっぱり直線状ですよね。しかし、外国ではマヨネーズはどうなって出てくるんだろうか。フランスとかだと何となく瓶入りマヨネーズみたいなイメージもありますが…。ググってみると瓶の画像が多いですね。。

 

 なんとなく、どうでもいいところに情熱を注げるうちは死なないような感じ、分かるような気がします。今ググってみたら、マヨネーズが星型に出るのは、当初は「おまけ」のキャップだったのが人気が出たからそうなった、と書いてあり、本当に全く効率とかそういうのとは無関係で笑った。本当に、全然どうでもいい情熱だったのか(褒めてます)。やっぱり人間、エッセンシャルなことばかりやっているわけにはいかないということですよね。生きるために全く必要のないことを突き詰める姿勢を見ていると、「死はずっと遠く」って感じします。

 それにしても、あの形がなぜ「星」なんだろうか…。

 

 あと紹介されていた歌の中で

 

将来は強い恐竜になりたいそしてかわいい化石になりたい

日没に間に合うために駆けるとき滅びたがっているわたしたち

 

が心に残りました。強い恐竜になって日没に間に合うために駆けて滅んでかわいい化石になってください(無理矢理つなげた)。

 

 

きみを閉じこめた琥珀を持ってるわわたしの胸できらきらひかる (yuifall)

 

 

「一首鑑賞」-21 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-21

「一首鑑賞」の注意書きです。

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21.まっさきに夏野原きて投げキッスの飛距離を伸ばす練習をする

 (工藤玲音)

 

 工藤玲音の歌は前から好きだったのですが今まで取り上げる機会がなく、今回(敬称略ですみませんが)東郷雄二の『橄欖追放』の記事を読んで、そこからいくつか引こうと思います。

petalismos.net

 工藤玲音って、まず名前がいいですよね!本名だということに驚きます。1994年生まれでまだ20代の歌人です。この歌、一度読んですぐ好きになりました。若さがほとばしっててそのうえめっちゃかわいい♡解説に

 

二首目、東北地方の夏は短い。短い夏に野原に来て、投げキッスの練習をするというところに圧倒的な若さがある。

 

と書かれています。岩手県の人だとか。

 投げキッスって、相手なしでは届いたかどうかわからないし、もしかするとその「夏野原」に好きな人がいるのかもしれないなって思いました。主人公は中学生とか高校生とかで、好きな人が夏野原でなんか野球の練習とかしてて(よく河原でキャッチボールとかしてる学生がいるからそのイメージですけど、「野原」なのでサッカーとかバドミントンとかでもいいのかも)、遠くから見ていて、投げキッス飛ばすの。で、どのくらい離れていても振り向いてくれるかなって。

 しかしこの場合は相手は恋人なのですかね?片思いの相手に投げキッス飛ばす練習はちょっと躊躇われますね(笑)。

 まー、一人でしていると考えるのが自然なのかもしれないけど、一人って考えるとさー、そもそも野原で投げキッスの練習なんかしねーだろって我に返っちゃうし(笑)、やっぱり恋人を遠くから見ている説を推したい私です。

 

 俳句も紹介されていて、

 

洗顔のたび濡れなおす夏の嘘

 

なんて好きですね。

 「洗顔のたび濡れなおす」ってことは、「夏の嘘」は顔、もしくは手にあるのでしょうか。あえて「洗顔」としたからには「顔」と考えるのが自然な気がする。最初、「嘘」っていう言葉からお化粧?って思ったんですけど、お化粧を「濡れなおす」っていうのはやっぱり変ですよね。「顔」のどこかに嘘がのっていると考えるよりも、もっと精神的ななにかと考えた方がいいのかなー。

 

 話は逸れますけど、短歌も俳句も作れる人ってどういう考え方をしているのかすごく気になります。もちろん俳句には季語縛りがあるのでそういう意味では違いますけど、一句できたらこの後に七七をつけて短歌にしちゃいたいと思わないのかな?逆に、短歌は長すぎるってならないのかな?不思議です。私は俳句は作れないので、工藤玲音は短歌も俳句もエッセイも(小説も?)上手だって知ってほんとすごいなーって思いました。(「ほんとすごいなー」ってあまりの馬鹿っぽさに悲しくなるわ…)

 

 

モルフォ、青、夏、燃えやすい、セルロイド、ブランコを漕ぐだけの革命 (yuifall)

 

 

「一首鑑賞」-22 - いろいろ感想を書いてみるブログ

「一首鑑賞」-20

「一首鑑賞」の注意書きです。

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20.あなただけ方舟に乗せられたなら何度も何度も手を振るからね

 (馬場めぐみ)

 

 砂子屋書房の「一首鑑賞」で吉田隼人が紹介していた歌です。

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 これを読んで川島誠の『電話がなっている』を思い出しました。前に桜前線開架宣言の山崎聡子の感想にも書いたのですが、小学生の時読んだ、『誰かを好きになった日に読む本』というアンソロジー本に載っていた短編小説です。あまりのトラウマで忘れられず大人になってから探して読み直したのですが、恋人と肉体的に結ばれるシーンなどもあり、多分アンソロジー本ではそのあたりは省略されていたのかもしれません。

 

 この歌では、「電話をならす」方の立場から詠われています。この人の心は安らかなのではないかな。愛する人が取り残されるのを見るよりも、選ばれて去るのを見守った方がずっといい。

 吉田隼人はこれに対し、

 

受賞後第一作のこの歌に切実に引きつけられたのは、自分もそのころ似たような経験をしていたからか。

 

と書いています。

 歌集『忘却のための試論』には恋人の自死に関する歌が含まれているそうですが(一部をアンソロジーで読んだに過ぎないのですが)、これが事実であるとすれば、この経験についてを述べているのでしょうか。彼女は「手を振って」、方舟に乗る恋人を見送ったのだと。自分は手を振られて見送られた方なのだと。

 最後にこうも書いています。

 

一首としては取り残される側が主体になっているので「その後」がないが、方舟に乗せられた「あなた」には、何度も何度も手を振ったそのひとを喪ったあとの日々がある。

 

 喪ったあとの日々を生きる方がつらい、どうしても、そう思ってしまう。もし私が方舟に乗せられた方だったら手を振り返せるとは思えないし、それどころか、その場にいることすら耐えられないかもしれない。

 たとえいつか痛みは薄れるとしても、何十年も経っても、不意に生々しくよみがえることがあると思う。もしこれが現実であれば、いつまでも「手を振って」くれた人を思って生きることだってできます。でも「あなた」が乗ったのが「方舟」である以上、生きて誰かと結ばれて子孫を残さなければならないのでしょう。

 

 さて、ここまで「あなた」は恋人であると考えて疑わず読んできたのですが、「方舟」に乗るのってどんな人だろうなってふと考えたんですよね。洪水は40日間続いて150日ほど水は地を覆い尽くしていたそうで、それから40日後に鳩を飛ばしてどうこうって話だったから、まあ落ち着いて繁殖とかできるのがおよそ1年後だとして、そしたらもっと、自分が想定していたよりも幼い子供が乗せられたのかもしれないなって思った。そう考えたら、手を振ったのは親かもなって思ったりもしました。我が子が助かったのだから、喜びで何度も手を振っただろう。

 まあ、「あなただけ」という言い方には親子という感じはしないので、恋人として読むのが適切かなとは思うのですが。多分10代の恋人なんだと思いました。16歳~18歳くらいの。

 

 

屋上で君は笑った 崩れてくビル その後の街を、私は (yuifall)

 

「一首鑑賞」-19

「一首鑑賞」の注意書きです。

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19.クロアゲハ横切る木の下闇の道 許せなくてもよいのだ、きつと

 (西橋美保)

 

 砂子屋書房の「一首鑑賞」で佐藤弓生が紹介していた歌です。

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 元の鑑賞文では他の歌もたくさん引用されています。例えば、

 

吊るされていまだ死者ゐるかたちなる服の胸倉あたりをつかむ

 

 義父に罵られ、殴られた経験が他の歌で述べられていますが、(中略)亡くなって間もない義父の服をハンガーからはずそうとした自分の動作にふと、胸倉をつかむという野蛮な行為を重ねてしまうのは、呪わしいことです。

 

 それから、

 

ちちのひにちちにかきたるちちのゑをちちよろこばず小鳥なく空

 

という歌もあります。

 

 許すことが救いになることもあるのでしょう。キリスト教でもそうでしょうし(だから「カノッサの屈辱」では謝りに来た皇帝を許さざるを得なかった、というのを読んでそうだったのかーと思いました)、仏教では、執着を捨てろと言います。でも、許せないこともある。そして、許せないことは自分を苦しめます。そんな時、「許せなくてもよい」と自分を許すことができれば、少しは救われるのかもしれません。

 

 それにしてもこの「ちち」の歌、最後、何で小鳥なんだろう?と思っていたら、解説に

 

〈ちち〉の繰り返しが小鳥のさえずりへ意識をいざなうという技巧に感嘆もします。

 

とあり、あー、そうだったんだ!と思いました。小鳥のさえずりかぁ。内容がこんなに悲しいのにリズム感がよく、語呂もよく、この歌の良さをなんて表現していいか分からない…。この表現は短歌だからこそなんじゃないか、と思いました。

 

 

愛せぬなら通り過ぎよとニーチェ云ふ躑躅の赤の立ちのぼる道 (yuifall)

 

「一首鑑賞」-18

「一首鑑賞」の注意書きです。

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18.フェミニズムってこんなことだっけ朝のみの女性専用車両が走る

 (久々湊盈子)

 

 砂子屋書房の「一首鑑賞」で松村由利子が紹介していた歌です。

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「サラダ記念日」の回で、「私作る人、僕食べる人」のCMについて触れられていたのでググってみたら、Wikipediaにまとめられていました。当時は今よりも更に、「こんなことでなに騒いでんの?フェミニストって痛いわー」みたいな空気感が強かったらしく、

 

作家の遠藤周作は10月6日付の『毎日新聞』で、このCMが女性に不快感を与えるのであれば撤回し「その代りに、その社のシャンメンを男と女が店屋で食べて(中略)女『わたし、食べる人』 男『ぼく、払う人』といえばいい」と書いた。

私作る人、僕食べる人 - Wikipedia

 

という記載もあります。

 

 確かに当時は、外食に行けば男性が奢るものだったのかもしれない。そして、家庭では女性が料理をするものだったのかもしれません。ですが、それらはいずれも男性=社会でお金を稼ぐ、女性=家庭を守る、あるいは低賃金の腰かけ仕事をする、という、男性側から規定されたステレオタイプに従った姿ですよね。もし女性が男性と同等に稼ぐことが認められていたら、男性は『払う人』にはならなくてもよかったのでは?

 

 マイケル・サンデルの著書のどれかで(『これからの正義の話をしよう』だったかもしれませんが違うかもしれない)、有名大学のマイノリティ入学枠についての記述がありました。かつての差別を是正するために、大学が人種的マイノリティに対して優先的に入学枠を設けているがために、入学試験でよりよい成績をとった白人が不合格になるという現状についての記載です。現在という一点で見れば、マイノリティ優遇で白人差別に見える。でも、長い歴史を通して見れば、白人をずっと優遇してきたために教育機会を奪われた人種的マイノリティへの差別是正機会ととらえられる。

 同様のことが「女性優遇」にも言えます。議員や会社役員などに「女性枠」をもうける、という試みに対して、しばしば「性別ではなく適性や能力で決めるべき」という声があがります。しかし、長年、「適性や能力の以前に"男性である"」(男性であることを前提として、適性や能力を審査される)ことで役職が決まってきた歴史を振り返ると、「"女性である"前提で適性や能力を審査される」枠をもうけることも歴史の過渡期には一つの選択肢なのではと考えられます。十分なロールモデルが育ったところで、「性別によらず選別する」ゴールを見据えて、ということになるんだとは思いますが。

 

 ここで詠われている「女性専用車両」にはもっと微妙な問題があります。通勤に際して、満員電車の苦痛から「女性だけが優遇されている」ととらえる面もある。でも、「性加害から女性を保護する」という観点もあります。身体的な面で、一般的に、男女はどうしても対等でない。

 

 鑑賞文には、

 

実際には「女性専用車両」だけが走るわけではなく、連結された車両全体が走るのだが、下の句の素気ない表現が妙な勢いを生み、女性専用車両だけが走っていくような、そんな奇妙な光景を思い浮かべてしまう。

 

と書かれています。確かに、この歌からは、女性専用車両だけが走って行ってしまっている感じがする。そしてそれは、「女性専用車両」に乗っていない全員を(男女問わず)置き去りにする「フェミニズム(のような何か)」批判とも読めます。

 

 「フェミニズム」が目指すのは、女性だけの幸福じゃないと私は信じたい。「女性専用車両」をもうけなくてはならないのは満員電車に象徴される状況(都市集中型の雇用、多様性に乏しい働き方などなど)が限界に来ているからであって、男女の対立の問題として単純化したくはないです。

 女性が社会に出てお金を稼げれば、女性も「払う人」になれる。「あなたも辛い時は休んでいいよ」って言ってあげられる。男性と女性は対立するものじゃないと思うし、そのどちらでもない性の人たちもいて、みんなが支え合える社会になればいいなって思います。きれいごとかもしれないけどね。

 

 

きみたちを消費したい、でも守りたい、多機能トイレのドア開けながら (yuifall)