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「一首鑑賞」-18

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

18.フェミニズムってこんなことだっけ朝のみの女性専用車両が走る

 (久々湊盈子)

 

 砂子屋書房の「一首鑑賞」で松村由利子が紹介していた歌です。

sunagoya.com

「サラダ記念日」の回で、「私作る人、僕食べる人」のCMについて触れられていたのでググってみたら、Wikipediaにまとめられていました。当時は今よりも更に、「こんなことでなに騒いでんの?フェミニストって痛いわー」みたいな空気感が強かったらしく、

 

作家の遠藤周作は10月6日付の『毎日新聞』で、このCMが女性に不快感を与えるのであれば撤回し「その代りに、その社のシャンメンを男と女が店屋で食べて(中略)女『わたし、食べる人』 男『ぼく、払う人』といえばいい」と書いた。

私作る人、僕食べる人 - Wikipedia

 

という記載もあります。

 

 確かに当時は、外食に行けば男性が奢るものだったのかもしれない。そして、家庭では女性が料理をするものだったのかもしれません。ですが、それらはいずれも男性=社会でお金を稼ぐ、女性=家庭を守る、あるいは低賃金の腰かけ仕事をする、という、男性側から規定されたステレオタイプに従った姿ですよね。もし女性が男性と同等に稼ぐことが認められていたら、男性は『払う人』にはならなくてもよかったのでは?

 

 マイケル・サンデルの著書のどれかで(『これからの正義の話をしよう』だったかもしれませんが違うかもしれない)、有名大学のマイノリティ入学枠についての記述がありました。かつての差別を是正するために、大学が人種的マイノリティに対して優先的に入学枠を設けているがために、入学試験でよりよい成績をとった白人が不合格になるという現状についての記載です。現在という一点で見れば、マイノリティ優遇で白人差別に見える。でも、長い歴史を通して見れば、白人をずっと優遇してきたために教育機会を奪われた人種的マイノリティへの差別是正機会ととらえられる。

 同様のことが「女性優遇」にも言えます。議員や会社役員などに「女性枠」をもうける、という試みに対して、しばしば「性別ではなく適性や能力で決めるべき」という声があがります。しかし、長年、「適性や能力の以前に"男性である"」(男性であることを前提として、適性や能力を審査される)ことで役職が決まってきた歴史を振り返ると、「"女性である"前提で適性や能力を審査される」枠をもうけることも歴史の過渡期には一つの選択肢なのではと考えられます。十分なロールモデルが育ったところで、「性別によらず選別する」ゴールを見据えて、ということになるんだとは思いますが。

 

 ここで詠われている「女性専用車両」にはもっと微妙な問題があります。通勤に際して、満員電車の苦痛から「女性だけが優遇されている」ととらえる面もある。でも、「性加害から女性を保護する」という観点もあります。身体的な面で、一般的に、男女はどうしても対等でない。

 

 鑑賞文には、

 

実際には「女性専用車両」だけが走るわけではなく、連結された車両全体が走るのだが、下の句の素気ない表現が妙な勢いを生み、女性専用車両だけが走っていくような、そんな奇妙な光景を思い浮かべてしまう。

 

と書かれています。確かに、この歌からは、女性専用車両だけが走って行ってしまっている感じがする。そしてそれは、「女性専用車両」に乗っていない全員を(男女問わず)置き去りにする「フェミニズム(のような何か)」批判とも読めます。

 

 「フェミニズム」が目指すのは、女性だけの幸福じゃないと私は信じたい。「女性専用車両」をもうけなくてはならないのは満員電車に象徴される状況(都市集中型の雇用、多様性に乏しい働き方などなど)が限界に来ているからであって、男女の対立の問題として単純化したくはないです。

 女性が社会に出てお金を稼げれば、女性も「払う人」になれる。「あなたも辛い時は休んでいいよ」って言ってあげられる。男性と女性は対立するものじゃないと思うし、そのどちらでもない性の人たちもいて、みんなが支え合える社会になればいいなって思います。きれいごとかもしれないけどね。

 

 

きみたちを消費したい、でも守りたい、多機能トイレのドア開けながら (yuifall)