「一首鑑賞」の注意書きです。
14.「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智)
この歌を知ったのはいつかはもう思い出せないくらい前で、この歌で感想を書くことは穂村弘の ぼくの短歌ノート-「日付の歌」 で登場して以来もうないと思っていたのですが、砂子屋書房の「一首鑑賞」で都築直子が紹介していて、なんかちょっと考えたので書いてみました。
鑑賞文にはこうあります。
サラダ記念日の一首がいっていることは、「私作る人、僕食べる人」と同じだと当時の私は感じた。短歌を知らない者にとって、五七五七七という短詩形が現代に生き、作られているということ自体は、新鮮な驚きだった。だが語られる内容にはついていけない。昭和の始めに戻ったような、なんとも古臭い男女観。ちょっと待って、といいたくなる。あなた本気でこういってるの? いや、作者がこういう歌を作るのはいい。それは表現の自由であり、作家個人の問題だ。私が受け入れ難かったのは、歌集がベストセラーであること、つまり日本人の多くがこの価値観をよしとしたという、その事実だった。私がこれから生きていくのは、こういう人たちが多数派である社会なのか。少しばかり大げさにいえば、目の前が真っ暗になった。
私はこの歌集を読んだ時、時代の風潮と言ったものと重ねることはなく、なんというか単純に「主人公(作者あるいは作中人物)の気持ち」として一首一首の歌を受け止めていました。社会の中の一人、として見る目線に欠けていたと思います。
だから、これを読んで初めて、今までずっと薄々感じてはいたけど言葉にはしてこなかったことをびしっと言い当てられたような気がして、はっとしました。確かに、そう思ってた。『サラダ記念日』それに『チョコレート革命』、いずれも、三歩下がって男に付いて行く昔の女って感じだなーって思ってた。だけど、私にとって俵万智は上の世代の女性だし、それほど違和感を覚えてなかった。男に「嫁さんになれよ」「お前」「待ってろ」「いつもきれいでいろ」とか言われて喜んでいても、サラダの味付けや夕食の献立に一喜一憂してても、妻子のいる男にさんざん振り回されてても、「この人」のストーリーだと思ってたし、そういうものとして単純に受け止めて読んでいました。
でも鑑賞文に
1975年、ハウス食品は「私作る人、僕食べる人」という会話を使った即席ラーメンのテレビ・コマーシャルを作り、消費者から「男女の役割分担意識を固定する」という抗議を受けて放送を取りやめた。
こうあって、「男女の役割分担意識を固定する」という批判がテレビCMに対して起こったのが1975年であったという事実にすごく驚きました。もしかしたら社会の状況ってそれほどドラスティックには変わってないのかもしれないと。もし、今現代において20代の女の子が『あなたについていきます』みたいな歌集作って(も、もちろんいいんですけど、それが)大ベストセラーになったら、私もまじかよー、日本ってそうなんだーって思うかもしれません。
とはいえ、7月6日になると歌人のTwitterが「サラダ記念日」で盛り上がったりするの見ていて楽しいし、単純にお祭りとして楽しんだり、短歌史の中のエポックメイキングな出来事として触れるだけでもいいのかな、という感じもします。この歌一首だけで読めば、恋愛のある一場面として爽やかなひと時だとも思うし…。あと昨今の風潮からすると、主人公が男性であってもいいのかなとも思った。「この味がいいね」って言うのが彼女で。
時代は大きくは変わっていないのかもしれませんが、それでも時の流れと共に一首に読まれる意味合いも移り変わっていくのだなあと感じましたし、こういう批判も含めて多面的な読み方ができるという点においても、今でも色褪せない名歌と言えるのかもしれません。
どこからが「手作り」で「愛」? お豆腐とレタスに塩昆布を和えている (yuifall)