「一首鑑賞」の注意書きです。
391.首とわかるまで網棚をころがりてゆくむこうまでゆく
(高瀬一誌)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで都築直子が紹介していました。
網棚を何かが転がっていると思ったら首、という異化系短歌だなと思ったのですが、鑑賞文は全然違う観点からこの歌を評していてそれがとても面白かったです。
この人は、ほんとうは俳句をつくりたかったのではないか。全歌集を読んでそんなことを思う。ことばの手ざわりが、短歌より俳句に近いのだ。そういう作品が多い。(中略)
歌が提示するのは、「首」が「網棚」を「ころがる」という三点だろう。季節、時間、場所、<わたし>の感慨などはいわない。作者が伝えたいのが、いま上げた三点だとするなら、たとえば、<網棚をころがってゆく首ひとつ>という三句十七音の無季俳句では駄目なのか。
この読み方すごいですね。俳句でもいいと。歌集から更に引用しているのですが、
じゅうたんのざらざら感覚をこの頃はおぼえたり (原作) 『レセプション』
じゅうたんのざらざら感をおぼえたり (改作)
さかさまにすれば魚から水は出るものたっぷりと出る (原作) 『スミレ幼稚園』
さかさまにすれば魚から水が出る (改作)
「この頃は」「たっぷりと出る」までいわなくても、三句十七音でじゅうぶんではないのか。高瀬一誌という作家は、私にとって一つの大きな謎である。
なぜ俳句ではなくて短歌を選ぶのか、一つの大きな謎であると。都築直子のコラムでは太宰治「桜桃」の一節
子供より親が大事、と思ひたい。子供よりも、その親のはうが弱いのだ。
を取り上げて俳句と短歌について書いていたものもあり、その命題に対する感受性が鋭いのかもしれません。
今まで短歌を読んで「これ俳句の方がよくね?」と思ったことないのですが、確かに『短歌パラダイス』でもそういう歌(「あざらし」だった)があったし、短歌を「詠む」人たちの頭の中ではそういった意識が常にどこかで働いているのかもしれないと思わされました。
水浸しの肺はあなたに所在ないチョコ缶1個分の人生 (yuifall)