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「一首鑑賞」-285

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

285.千年後緑の星で再会の話の腰を折って口づけ

 (雪舟えま)

 

 前回の続きです。

 ところで私は短歌カルチャーに触れてきた時間がかなり飛び飛びなので雪舟えまを『短歌タイムカプセル』『桜前線開架宣言』で知ったのですが、いずれにも穂村弘との関係性は書いていなかったので、『はつなつみずうみ分光器』で初めて知ってとても驚きました。

 

 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』の「まみ」のモデルが小林真実=雪舟えまであることは周知の事実だ。

 

とあります。そうだったんかい。そのために雪舟えまが「まみ」と同一視されたり、雪舟えまの歌集『たんぽるぽる』が『手紙魔まみ』の副読本として読まれたりした、という当時の現象についても触れられていました。

 作者のプロフィールをごく簡単にしか記載していない『短歌タイムカプセル』はともかく、『桜前線開架宣言』で山田航はこのことに一切触れていません。今さら、それがどれほど潔いことで、また雪舟えまの歌を先入観なしで読ませてくれたかを思うととてもありがたく感じます。その一方で、『はつなつみずうみ分光器』における瀬戸夏子の解説でそのことを知れてよかったとも思います。多分『たんぽるぽる』も『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』も、その前提を知って読むべき歌集なんだろうと『はつなつみずうみ分光器』を読んで感じました。

 

いちばん美人のかたつむりにくちづけて、命名ヴィヴィアン・ウエストウッド

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』)

 

傘にうつくしいかたつむりをつけてきみと地球の朝を歩めり

雪舟えま『たんぽるぽる』)

 

 このように、第一歌集『たんぽるぽる』では、もしかしたら「まみ」に寄せてる?と思うような歌もあるのですが、一方で歌集タイトルを含む

 

たんぽぽがたんぽるぽるになったよう姓が変わったあとの世界は (雪舟えま)

 

について、瀬戸夏子は「これは「手紙魔まみ」という役割を降りた、という雪舟の宣言と読んでも差し支えないと思う」と書いています。同じ歌について東郷雄二の『橄欖追放』では「結婚して姓が変わった後の違和感を読んだもの」と書いているので、この違いはやはり「まみ」という背景を加えて読むか否かなんだろうなと。

petalismos.net

 

 ここ数回の記事で、穂村弘と若手歌人との関わり方について批判的な見方があることを取り上げてきました。私自身は、穂村弘という歌人はあれだけ広く影響を及ぼしているのだから、そりゃあいいことも悪いこともあるんだろうなぁと決して批判一辺倒で受け止めているわけではないのですが、吉川宏志も指摘するように特に「若い女性(少女)」に対する幻想というかそういう面を指摘する記事を時々目にするのは事実です。穂村弘ダウンタウンというよりも秋元康なのか?

 

かつて『現代歌人ファイル』の感想記事にも引用したのですが、

yuifall.hatenablog.com

砂子屋書房の『月のコラム』で田中槐が「穂村弘の功罪」というタイトルでコラムを書いていました。

sunagoya.com

 

この歌(*岡崎裕美子の、「したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」)が、初めて穂村弘によって引用されたのがいつなのか、正確には覚えてはいないのだが、少なくともこの歌が引用され話題になったとき、岡崎裕美子はまだ短歌をはじめて間もない頃だった。そんな時期に代表歌を決められてしまうことは、歌人のスタートとしてしあわせなことだろうか。「眠れる森の美女」の魔女の呪いのように、それは岡崎裕美子のその後の歌を縛ることにならなかっただろうか。

穂村弘は同じ歌をなんかいも引用する傾向が強い。それは彼の嗜好が偏っているからではなく(もちろん、偏っているからでもあるが)、自身の短歌論を補強するための手段ではないだろうか。

(中略)

「わかりやすい」ということは、とても危険なことなのだ。「棒立ち」や「短歌的武装解除」として括られた歌(や歌人たち)が、その用語や彼の語る理論がわかりやすいがために(岡崎裕美子が「したあとの朝日……」の歌の流布によってイメージを決めつけられてしまったように)穂村弘という魔女の呪いにかかってしまった可能性はないだろうか。

 

 瀬戸夏子は『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』を「穂村弘のベスト歌集」と評する一方で、雪舟えまについてはこのように書いています。

 

エキセントリックな少女=「手紙魔まみ」は当時の穂村と雪舟のあいだでうまれた幻想であり、そして穂村側からのファンタジーとして描かれたのが『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』という歌集だ。

(中略)

雪舟えまは「手紙魔まみ」という物語に搾取されすぎた。彼女はこの後、どうやってこの物語の呪いから逃れるのだろう、とわたしはその活動を見つめていた。

 

 古くから、「ミューズ」現象というか、男性によって女性が過度に神格化され、彼の幻想の器にされるといったことは芸術界ではよくあったと思います。彼女たちはかつては「芸術の女神」とされ、男性にインスピレーションを与える存在として敬われてきましたが、同時に人格は剥奪され、エキセントリック、コケティッシュ、セクシー、ピュア、アトラクティブといった言葉でむしろ単純化されてきました。近年になって、女性は男性のインスピレーションの器ではない、という見方が強まったためにむしろ批判の対象になったイメージがあります。「ミューズ」は男性を鼓舞する存在として神格化されてきたが、それは女性の側から見ると「呪い」であると瀬戸夏子は書いています。今までニューウェーブと青春について書いてきましたが、ここでも、「青春を終え、若さを失ったミューズはどうなるのか」という疑問が投げかけられているように思えます。

 雪舟えまが出した答えは『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』でした。ここでは「はーはー姫」=雪舟えま、「彼女の王子たち」=架空の2人の王子「緑」と「楯」でした。みどたてBLです。

 

 かつてBLが「耽美」「やおい」「JUNE」と呼ばれていた頃から、なぜ一部の女性たちは男性同士の恋愛にハマるのか?ということは散々論じられてきました。アダルトチルドレンとか機能不全家族とか色々言われていた頃もあったと思いますが、今BLとしてカジュアルに広まっているのを見ると、そんな重たい理由ではないような気がします。単に、(一般的に男性の性欲の対象とされる)女性の肉体を持たず、(性欲を前提とすることなく)純粋な愛情で愛され、結果的に(激しく求められて)肉体関係を結んでも妊娠・出産といった生臭い事態にならず、どれほど時間が経っても愛はピュアなまま、という究極のエターナル・ラブの器として好まれただけではないかと個人的には思います(まあそれだと子育てBLとかの存在説明できないんですが、そのジャンルは語れるほどよく知らないんで)。また、女性の側から男性を性的に消費する手段である側面もあるんだろうなとは思います(子育てジャンルとかはこの点から説明可能なのかもしれない)。

 ここでも、雪舟えまが「まみ」から「はーはー姫」になったことを考えると、かつて男性に消費されていた私が男性を消費する物語、と読めなくもないですよね。「まみ」は実在の人物で、みどたては架空の人物である点がえらい違いますけど。しかし結局成り代わりによる「永遠の青春」からは逃れられないのかという気にもなりましたが…(「出口なしの青春」とはよく言ったものですね)。まあ、BLそのものがある意味時間が止まったエターナル・ラブの器と言えなくもないですし、このあたりはむしろ短歌というよりもBLとは?みたいな議論も加わってややこしいのでこれ以上の掘り下げができないのですが(今でもBL研究みたいなのあんのかな?)、瀬戸夏子は短歌という側面からこれを読み解いています。

 

『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』は穂村弘がおこなった短歌の<私性>信仰への果敢なチャレンジであり、偉大な成果でもあったが、そこではミューズ=モデルであった雪舟えまが、今度はみずからの手で新たな<私性>信仰以降の地平を切りひらいた、その成果としてこの歌集は読まれるべきである。

 

 ここには二重の意味で革命があります。まず、「雪舟はやっと描かれる側から描く側へと移行できたのではないか」と瀬戸夏子は書いています。これは雪舟えま自身がミューズを脱却したという点で革命的ですが、一方で「描く側」にいるのは短歌の実作者としてはむしろ当たり前のことでもあります。だからそれだけではなく、この歌集ではさらに「はーはー姫」として「みどたてBL」を歌にすることで、<私性>の挑戦にもなっていると受け止めることができます。『手紙魔まみ』では実在の人物である穂村弘の描く架空のキャラクターである「まみ」の背後に雪舟えまという実在の人物がいる、という構造になっていましたが、『はーはー姫』では実在の人物である雪舟えまが架空のキャラクターである「はーはー姫」に扮し、架空のキャラクターである「緑」と「楯」の恋愛を描くという構造になっている。

 

 いやー、『はつなつみずうみ分光器』面白いですね。紹介されている歌集どれも読みたくなっちゃいます。冒頭の歌は普遍的な愛の歌としても読めますが、「緑」とキャラ名が入っているので特定の人物への愛を詠っているのかもしれず、全部まとめて読んだらもっと面白いんだろうなと思わされます。元祖耽美系歌人黒瀬珂瀾の『黒曜宮』とこの『はーはー姫』を読み比べてJUNEからBLへ…みたいな読み方をするのも面白いのかもしれん。

 ただ、短歌って短いからBLであるかどうかは連作全体や作者名を見ないと分からない場合があるという弱点はあります。一首だけでは成立しづらいというか…。今までに読んだBL短歌で一番上手だなと思ったのは松野志保の

 

手詰まりのチェス放置してベッドへと雪崩れる僧正(ビショップ)と騎士(ナイト)のように (松野志保)

 

ですね。一首でもだいたいの状況が把握できるし、古風なBLの香りを感じます。

 

 

死にもせずかわいいママになりもせず俺たちの冒険はこれからだ

*先生の次回作にご期待ください (yuifall)

 

 

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