「一首鑑賞」の注意書きです。
286.牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ
(宇都宮敦)
前回の続きです。
この歌は、瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』の「宇都宮敦」の章でこのように評されています。
そしてこの歌は穂村弘「手紙魔まみ」的な価値観への真っ向からのカウンターであり、現在でもありつづけている。
「斉藤斎藤」の章にも登場します。
ポストニューウェーブの傾向を(やや強引ながら)一言でまとめると「<特別>から<ふつう>へ」である。穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』から宇都宮敦「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」へ。前衛短歌を踏まえてポップ化したニューウェーブからポストニューウェーブへ変化したとき回帰したのは近代短歌であった。<ふつう>であることこそが<特別>であるかけがえのない<私性>へ。
「<特別>から<ふつう>へ」はそうなんでしょうが、近代短歌への回帰、というのはちょっと違うような(雑感です)。この両者を対比した時思うのは、“「手紙魔まみ」的な価値観への真っ向からのカウンター”というのはつまり「ふつうの女のコをミューズとして消費しない」ということであって、同じ<ふつう>であっても近代よりも少し視点は上昇しているように感じます。
宇都宮敦は「まみ」を否定したいわけじゃないんだと思う。多分「まみ」、というかどんな女性にも「エキセントリック」なところも「ふつう」なところもあって、同じ女性が穂村弘の前では「まみ」でも宇都宮敦の前では「ふつうの女のコ」かもしれない。「僕の芸術のために彼女のエキセントリックさを増幅して消費する」姿勢へのアンチテーゼというか、ありのままの彼女を「ふつうに好きだ」ってことなんだと思います。
瀬戸夏子は、ポストニューウェーブ世代の短歌シーンの中心として永井祐を挙げています。
ローソンの前に女の子がすわる 女の子が手に持っているもの
電車にバッグを投げつけて怒鳴り散らす女性 ぼくのいる位置 女性のいる位置
永井の持ち味は、適切な距離感である。他人を勝手に歌のための都合のいいアイテムにしないこと。「ぼくのいる位置」から「肯定」すること。かっこいい。こんなやり方は永井祐にしかできなかった。フォロワーが多いのも納得である。
永井祐『日本のなかでたのしく暮らす』は2012年。宇都宮敦の『ピクニック』は2018年ですが、彼の歌が多数掲載された『ショートソング』(枡野浩一)が出たのは2006年だそうです。この「牛乳は~~」の歌っていつの作品なんでしょうね。永井祐よりも前?後?
その後2019年に笹井宏之賞を受賞した柴田葵の章で、こうも書いています。
あしか見にいこうね、あしかは今日だって生活しているけれど、週末
あしかを一緒に見にいく相手と、相手と一緒にあしかを見にいきたい「わたし」と、あしかは全て別の生きもので、別の生、別の生活がある。けれどこの三者を一緒に詠むとき、三者に対してフェアであることを極めようとするとこういう詠みぶりになるのだと思う。
ある駅の あるブックオフ あの前を しゃべりながら誰かと歩きたい (永井祐)
フェアネス、というのはキーポイントである。前衛短歌やニューウェーブの比喩や修辞の華麗さは、どうしても他者の尊厳をどこかで簒奪しなければ成立しづらい。ポストニューウェーブの<私性>への接近は、歌人=作中主体と他者との距離感を適切化するために不可避的におこなわれたところがあると思う(この「他者との距離感の適切化」というニューウェーブからの離脱をいちばんうまく成し遂げたのが永井祐である)。柴田の感覚にもその残響がある。フェアネスとはつよい禁欲である。
永井祐と柴田葵の「フェアネス」「つよい禁欲」と、宇都宮敦の歌の違いについて考えました。「ふつうの女のコを~」の歌が「手紙魔まみ」へのカウンターであるとすれば、それはやはり「他人を勝手に歌のための都合のいいアイテムにしない」という視点から読めるかもしれません。しかし一方で、禁欲的までにその距離を保とう、フェアであろうという意思はあまり感じません。「ふつうに好き」なわけだし。むしろ
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ (穂村弘)
とどう違うんだろう、と思ったり…。熱が出ているのに雪にはしゃぐ彼女に「雪のことかよ」と(ちょっとあきれながらもかわいいなって目線で)心で呟いてみたり、彼女を「ふつうの女のコ」と評し、逆からあいた牛乳パックを見て(ちょっとあきれながらもかわいいなって目線で)笑う、のは、やっぱり「禁欲的な距離感」ではないと思うけど、だからといって「不適切」「尊厳の簒奪」とも感じないんだよなー。この辺よく分かりません。瀬戸夏子は多分文字数的な理由で書ききらなかったんだと思いますけど、「前衛短歌やニューウェーブの比喩や修辞の華麗さは、どうしても他者の尊厳をどこかで簒奪しなければ成立しづらい。」という前提がまず難しくてよく分かんないもん。つまり文脈からすると「他者を自分の歌のための都合のいいアイテムにすること」なんでしょうが、その代表となる歌やコンセプトが(「まみ」以外に)分からないしよく知らないので。
あと、永井祐の引用歌、「他人を自分の目線で測らない」という徹底した「フェアネス」「つよい禁欲」は分かるけど、それが「他者との適切な距離感」(というニューウェーブからの離脱)なのかはよく分かりません。やや過剰に客観性を保とうとしているようにも見えます。Subject と object を分離しなければならないという強固な意思、それは「つよい禁欲」でしょうが、果たして「適切な距離感」なのだろうか。更に言うと、ここで引用されているようなsubject と object を徹底して分離した歌を「ぼくのいる位置」からの「肯定」と受け取るのは希望的観測にすぎないのではないか?肯定も否定もしてなくない?柴田葵の歌も、むしろちょっと窮屈に感じる。そこを口に出して言わなければいけないのか、今の時代は、みたいな。私は、それをわざわざ口にしなくても「あしかにも今があり、あなたにもわたしにも別の生がある」ことが共有できる人と一緒に「週末あしかを見に行きたい」と思うんですよ。それが「ふつう」で、それを一番表しているのが宇都宮敦の歌なのかな、って思った。そしてそれと「ゆひら」の歌との差異が今分かんないので、誰か教えて下さい。
読めば読むほど沼深まる短歌の世界ですが、『はつなつみずうみ分光器』もいつか感想記事書きたいなー。でもこれ読んでると歌集も読みたくなるし、周辺知識も知りたくなるし、マジ沼なので今ちょっとハマれずにいます。時が満ちるのを待つわ…(と言いつつ何もせずすでに1年は経ったけどいずれ)。
Φ2mの浮き輪を常に身につける F=μW≒0 が適切 (yuifall)