「一首鑑賞」の注意書きです。
279.からだの中の柊を見てゐるやうな君のまなざし 逢ひたいと言ふ
(澤村斉美)
この歌を知ったのはもともと山田航の『桜前線開架宣言』で、その頃から好きだったのですが、うまく解釈できませんでした。なぜ、目のまえにいる人に「逢いたい」と言うのだろうと。
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーをずっと見ていたところ、かなり初期(2009年1月)に魚村晋太郎が紹介していました。
こんな風に書いています。
下句は少しわかりづらい。「君」は目の前にいるのだろうに「逢ひたい」とはどういうことか。例えば職場とか、大勢の集まりの中に二人はいて、男が、二人っきりで逢いたい、と言ったというふうに読んだ。「からだの中の」という表現は少しなまめかしくもあって、今はぎくしゃくしているけれど、二人はもう深い仲であることも伺わせる。
ああ、そうだったのか、と思った。もちろんこの読み方が絶対でないとは思いますが、それでも、ようやく状況が分かったような気がしました。いや、自分が読解力ないだけでみんな分かっていたのかもしれませんが…。でもそうかぁ、って思った。みんなと一緒にいる時とか、とにかく2人きりで深い話ができる状況でない時に、「君」がわたしに「逢いたい」と言う、というシーンという読み方ですね。その場合、「柊」はどういうことだろうな。やっぱりちくちく痛いようなものがわたしの中にあるのを見透かしているようなまなざし、と受け止めるべきだろうか。
男は主人公の拒否の気配を敏感に感じとりながら、また逢いたい、とか、もっとちゃんと逢おう、とか言っているのだ。男はなんでこんなに往生際が悪いんだろう、と自分の体験に引きつけて冷や汗がでる。が、こういう努力が関係を決定的に悪化させることもあれば、逆に二人の絆をふかめることもある、だろう、と思いたい。
鑑賞文にはこんな風に書いてあり、こういう男性目線での感想は自分の中からは出てこなかったので、ちょっとどきどきしました。「拒否の気配」が「からだの中の柊」かぁ。すでに深い関係にある2人が、何らかの理由でぎくしゃくしていて、それでも「逢いたい」と言う。きちんと会って話そう、と。確かにそういうシーンであるとも読めます。
もしくは、ですけど、もっと一歩踏み込んで、「逢ふ」というのは古語的な用法と考えることもできるのかもしれません。つまり、ひらたく言えば、「きみとセックスしたい」と言っているのかもしれない。だから「からだの中の柊を見てゐるような」まなざし、ということになるのかも。わたしのからだの中の、ちくちくと痛いようなものを見透かすようなまなざし、という意味なのかもしれません。
最初に出会った時から好きだった歌なのですが、ずっと解釈できてなくて、でもこの鑑賞文をきっかけに少し理解が深まったような気がします。このように、知っている歌に再び出会う経験がとても好きです。
手を取って冥府を駆けるあなたの背「振り向かないで」(振り返ってよ) (yuifall)
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