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レイ・ブラッドベリ(伊藤典夫訳)『華氏451度』 感想

 不定期読書感想文。

 

 以前 読書日記 2024年1月31日-2月6日 で「感想長くなったので後日」と書いていたレイ・ブラッドベリ伊藤典夫訳)『華氏451度』です。

 本を焼く話というのは知っていたので、本好きとしてはわくわくして読み始めたのですが期待外れというか、マジで合わなかった。世間一般の評価は高い小説なんでボロクソ書くとこっちが馬鹿に見えるかもしれませんが、でも好きじゃなかったんだからしょうがない。

 

 以下結末までネタバレしてるので畳みます。また、ジョージ・オーウェル1984』のネタバレもあります。あと、予告しているようにかなりネガティブな内容なので、不愉快になると思われる方は自衛してください。

 

 

 ディストピア小説なんですけど、主人公の半径数メートルの世界しか描写されないからそもそも世界観がよく分からん。本を焼くのは民衆の総意であって特に支配者がいたりとか検閲とかが目的じゃないんだってさ。みんな、インテリがいると何となく嫌だから本焼くんだって。へえー。人類史上初めてじゃない?こんなに民衆が一致団結してるのってさ。素晴らしいね。しかもそれを主人公の上司ベイティーが主人公モンターグに訥々と言って聞かせるのですが、そもそもモンターグは「祖父も親父も昇火士(本を焼く仕事)だった、他の職業を考えたこともない、20歳からもう10年も働いてる」とか言ってんのに自分の仕事が何のためにあるのかも分からなかったってこと?アホすぎんか?反社会分子とされた人物が社会から排除されてるっぽいのも“民衆の総意”なわけ?民衆って誰だよ。

 全体に矛盾だらけでイライラしながら読んでたのですが最後爆弾落とされて終わりではぁ?イミフってなった。だから何?みたいなラスト。「書を捨てれば滅ぼされる」みたいな含意にしたいなら知によって滅ぼされるべきで、爆弾一発ハイ終了ではあまりにもさぁ…。本土が爆撃されるのは愚かだからって言いたいのか?舐めてんの?

 そもそもどことなぜ戦争しているのかも全く分からないし、主人公もそのあたりに全く無関心ですよね。物事に無関心なのは本を読んでないからってことにしたいのか?しかし「焚書坑儒」というか「本を焼く」というのは本質的には思想弾圧、言論の自由の剥奪であるはずで、思想的対立が見えなかったらそれを描く意味がなくないか。単純に教養主義vs反教養主義ってこと?最後は教養主義者のみが生き残るわけ?そんな青白いインテリばかりで社会が成り立つんですか?

 

 あと、50年代の小説だから仕方ないのかもだけど、女はミューズか馬鹿のどっちかで、逆に男は知識人しか出てこないのもはぁ?って感じです。主人公はミューズ(クラリスと老女)の導きで書に目覚めた男として描かれていて、彼を導くフェイバーも男性、彼と対立するベイティーも男性(しかもファイヤマンでありながら知識人)、ラストで出会う本好きの集団も全員が男性です。

 まあこれは見えてる世界が狭すぎるからって気もするけどね。大衆があまりにも描かれてなさすぎて愚民が主人公の妻とその友人しか登場しないし(同僚のファイヤマンはいるがほぼモブ)、展開はご都合主義だし。

 

 何か色々考えたけど教養主義的思想の押しつけがましさが嫌だ。本ってそんな高尚なわけ?テレビやYoutubeの99%はくだらねーだろうなって思ってるけど、はっきり言って本だって99%はくだらねーよ。

 何かね、これ読んで、「テレビやネット、Youtubeなどの安易な娯楽に流れて本を捨てる今の時代をまさに描いている!本を読まないことの恐ろしさ!」みたいな発想に流れるのがマジで無理。これ読んでる自分は選ばれし側!みたいな自意識やん。マジないっしょ。そんな、多くの人が安易な娯楽を好むのなんてこれが書かれた50年代もそうだったし、それ以前もそうだっただろうし、今もそうだし、多分ずっとそうだし、何なら本だって安易な娯楽の一種だよ。それだけのことじゃん。そもそも安易な娯楽に耽溺していられるのは世の中が豊かだからじゃないのか?この世界では誰がどんな仕事して豊かな世の中を成り立たせてんの?それが全然見えない。

 

 マジで世界観が不明なんですよね。世界には本、というか文字による伝承なしに維持されている文化もあるのかもしれませんが、ここで描かれている社会は明らかにそういうたぐいのものじゃありません。途中で「血を全部入れ替えて薬物中毒を治療する」とか「機械猟犬」「戦闘機」「緑のイヤホン」「匂いを入れ替える液体」とか出てきて明らかに高度な文明があるわけじゃん。本なしで一体どうやって高度な医学や機械工学が発展できる?無理でしょ。文学でない本ならあってもいいんですか?論文とか学術書ならいいわけ?インテリが嫌いで楽しい事しか知りたくないから民衆の総意で本を焼いてるって設定はどうなってんの?ぐだぐだじゃねーか。文学を理解する者だけがインテリで他は(どんなに理工学や医学の知識があろうと)全員馬鹿だからOKってこと??

 治療に関わる“便利屋”が登場して“医者”が存在することがほのめかされるし、金持ってる理由として突然「株で金稼いだ」とか言う老人現れるし、どう考えても本を読めて知識を独占している一部の特権階級がいるとしか思えないのですが、もしそういう存在が知を独占することで愚民を操っているのだとすると中世的な世界(あるいは失敗した社会主義国家的世界)になるはずで、民衆は労働に従事して必死で生産し納税しなければ日々の生活が成り立たないんじゃ?こんなラウンジ(テレビ)だの巻貝(ラジオ)だのに現を抜かして横たわってる暇なんかあんの?

 

 例えばオーウェルの『1984』だと、“ビッグ・ブラザー”(施政者側)と“党員”(知識階級)、“プロレ”(労働者階級)にはっきり階層が別れた世界になっていて、主人公は“党員”であるがゆえに思考すら“ビッグ・ブラザー”の支配下にあり、いずれ学のない“プロレ”から革命が起こることを期待しつつも思想闘争に敗れる、というラストでしたが、ここではそういう階級は判然としないし、本を読まなくても労働をして社会を支える“プロレ”が存在する気配はありません。というか主人公が本を奪われた非知識階級である以上、彼らこそが生産労働に従事する“プロレ”でなければこの世界が成り立っている説明がつかないのですが、主人公は非生産労働に従事する非エッセンシャルワーカーだし奥さんはかなり優雅なニートだし(専業主婦とすら言い難い)、本に拘っているキャラは基本みな老人で働いてる気配ないし。しかしながら全体としてはそういう非生産者を養うことができる高福祉社会が成り立っているように見えます。奥さんはオーバードーズして自宅で高度医療受けてるし、その時治療に来た“便利屋”は「よくあること」とか言ってるし。

 文学が奪われ、誰も本を読まず、誰も頭を使わずろくな生産労働に従事しなくても高福祉社会って成り立つんですかね。だったらもう別にそれでよくないか。なんかよくある寓話思い出すよね。がむしゃらに働いて成功した男が海辺のリゾートに来て「ここで憩えるなんて幸福だ」とか言ったらそこで生まれ育った貧乏な老人が「俺は生まれた時からその幸福を持っている」みたいに言うやつ。

 

 てか、ミクロ的にはこの夫婦がアホすぎて“本を読まないと駄目だよ”みたいなメッセージに見えるけど、マクロ的には単に一定数働かない(あるいは考えない)人がいることが許容された高度文明社会が成り立っているだけという気さえする。要は普通の先進国のあり方で、生産性労働をしている人も本を読んでいる人も描かれないだけで存在するんですよ。そうじゃなきゃあの世界観は維持できないでしょ。社会実験なんじゃないの?箱庭的な社会に閉じ込められて「人間に本を与えなかったらどうなるか観察しよう!」の被験者にされてるだけってオチの方がまだ理解できるしディストピア感もあります。

 実際そういう話なのかもしれないとも思うんですよ。主人公は箱庭にいて、実は周囲には高度に発展した文明を有する知的生命体(まあ、人ですけど)が主人公たちの生き様を観察しているという。主人公と妻がお互い馴れ初めとかを全く覚えてないのもそういう意味なんじゃないの?主人公だけが被験者で残り全員がグルなのか、箱庭にいる全員が被験者なのかはお好みで想像してください。

 でもその実験から得られるものって何だろう。本に触れたことで主人公は知識欲に目覚め、それによって手を汚したわけで、つまり本は知恵の実、アダムの林檎だったということか?失楽園してここから厳しい人生が始まるってこと?こいつを観察することで人間の何が分かる?むしろこの本によって鳴らされている警鐘(本を奪われることは思考の自由を奪われることである)とは逆に、人は知識欲のためなら殺人すら犯しうるということが読み取れるような気さえするのですが。

 

 最近SF作品いくつか読んで考えたんですが、SFとかディストピア小説って世界観の構築がかなり重要なファクターなんじゃないかと思うんですよね。主人公がいて、それを取り巻く世界があって、その世界はこういう風に成り立っていて、こういう原理が社会を支配していて…という。特にディストピア小説では、主人公がなぜそのような境遇にあるのか、そしてなぜそこから抜け出せないのかが社会環境面・思想面から描かれて納得できないと共感できないじゃん。この小説にはそれが納得できる形で描かれてないんだよね。だから『百年の誤読 海外文学篇』(岡野宏文豊崎由美)でも「一行で書けるスローガンを無理矢理小説にしてる」って言われてるし。実際、小学校の張り紙「秋の読書週間:みんな本を読もう!」以上のものってここになくないか?

 社会全体の様子がはっきりしないの、主人公が本を読まないからこうなっちゃうんだよ?みたいに言いたいのかもしれませんが、マジで世界が狭すぎるのでディストピア小説というよりも一種の幻想小説に見えるんだよね。どうせデウスエクスマキナ的な終わり方なんだし、夢オチでも問題ないんじゃ。最後目が覚めたら現代にいるんですよ。で、最初は「本がある!」って喜んで色々読むんですが、しょうもない教養本みたいなものを散々読み漁った挙句に陰謀論にハマり、最後はYoutubeにどっぷり漬かる感じね。そういう人に見えるよ、この主人公。

 

 主人公がナイーブすぎて(naïve:経験不足であまりに世間知らずな、うぶな、馬鹿正直な、考えが甘いの意)感情移入できないのも痛いよね…。フェイバーと出会って仕事を辞めるのをやめて、よし、地下に潜ってレジスタンスだな!と思いきやいきなりとち狂って奥さんの友達の目の前で詩を朗読して通報されたりしてさ、やってられん。本読まなくても(学がなくても)頭いい人ってたくさんいるじゃん…。なぜそう描かなかった?

 本に出会って目が覚めて…ってのは分からんでもないのですが、最初失敗はしてもフェイバーのアドバイスを受けながら慎重に行動していつかこの世界を打破する…ってとこに至らないので、本を読んだことで自分の頭で考えるようになって結果何かが変わったという感はまるでありません。ただ流されるまま終わった感。詩を聞いて奥さんの友達が泣き出すのも、それに対して「物事に正面から向き合わせずに逃げて愉しくすごさせた方がよかった…」とか後悔すんのもマジ意味分からん。詩を聞くのが“物事に正面から向き合う”ことなわけ?それは時と場合によるでしょ。自分に酔いすぎててキモいわ。

 

 そもそもラウンジ(テレビ)とか巻貝(ラジオ)が配信されているということは作っている側がいるわけで、それが無視されてんのもご都合主義に思える。テレビやラジオが成り立つってことは、活字のみで成り立っている台本の存在があるよね。実際妻が台本読んでるシーンあるしね。これはいいんだ?作中で「英国の影響を受けた書物を禁止する」って書かれてて百万点の禁書があるという設定になっていますが、途中でダンテだのマルクス・アウレリウスだのも焼いてて英国の影響??ってなった。じゃあ西洋以外の、孔子論語』とか『千夜一夜物語』はいいんか?小説がダメでも漫画や映像ならOKだったら、『漫画で読めるダンテ神曲』や『ミュージカル:レ・ミゼラブル』などは生き残ってんの?戯曲じゃなくて映画の、しかもレオナルドディカプリオ主演の『ロミオとジュリエット』はどういう扱い?高尚なものと低俗なものってグラデーションのはずですが、そのカットオフはどこにあんの?

 それが作中ではっきりしないのがなぜ嫌かっていうと、「禁じられるべき高尚なものと大衆に提供してもいい低俗なものの違いなんて、説明されなくてもみんな分かるでしょ?」っていう言外の押しつけがましさを強く感じるからなんですよ。この本、もともとラジオの台頭で従来のメディアが破壊されることに警鐘を鳴らす意図で書かれたそうなんですが、実際ラジオが低俗であって世界を壊したかっていうとそうじゃないし、テレビもネットも同じだろ。一体どれを低俗でどれを高尚って誰が決めんの?

 

 本を焼くことに信念を持ってる上司のベイティーが本にめっちゃ詳しくて途中で色々引用してべらべら喋りまくるのギャグかよって笑いそうになったし、結局本を読んで辿り着く場所が反教養主義だったら本を読む意味って何なの?モンターグはベイティーを焼き殺したけど、彼を殺人に駆り立てた読書に何の意味があった?本で得た思想に裏打ちされた行為でもない短絡的な殺人だし、それによって例えば地下運動とかレジスタンスに繋がったわけでもないし、こいつは本なんか読まない方がよかったんじゃくらいまである。

 確かに思想のために命を賭ける瞬間はあり得ると思いますが、本を焼くための装置で人を焼き殺すというグロテスクさもあるし、そもそもここに思想闘争なんかないじゃん。むしろベイティーの方が思想で主人公を圧倒して主人公はそれに暴力で対抗してるし、完全に悪役側じゃねーか。そこもまた感情移入できないんだよな。ペンで勝てないから剣で刺すのかよ。

 ハインリヒ・ハイネの言葉に「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」ってありますが、これはつまり思想弾圧は最終的にジェノサイドに繋がるってことでしょ。でもここでは本を焼いてたキャラがその愚かさに気づいた結果?今度は人を短絡的に焼き殺してて、この言葉が全く表面的に消費されているように思える。

 

 この殺人のシーンほんとに不満。正直①口喧嘩に敗れて衝動的に殺した、あるいは②捕まりたくないし共犯者の正体を突き止められたくなかったので行き当たりばったりで殺した、のどちらかにしか見えませんが(「緑のイヤホンを逆探知して共犯者を突き止めると言われたからつい…」みたいに言ってたので②の可能性が濃厚)、この両者の場合主人公が本を読んで知恵をつけた意味ゼロですよね。本はこの人の短絡的な性格を変えることができず、最終的に人殺しまでやらかしたってことですから。

 で、最大限好意的に解釈すると③共犯者を突き止められることでフェイバーが死に、本を蘇らせる計画が失われることを恐れた、あるいは④思想闘争の結果であり、本を読む自由を奪われたくないという意志の発現、などの理由だったのかもしれませんが、そうだとしたら上述のように「人は書物、知識欲のためなら殺人すら犯しうる」という意味合いになり、どんなに知識から遠ざけても知を求めるのが人間の本質であるということになります。でもそんな風に解釈するなら、どんなにマスメディアが台頭しても別に恐れることなくないですか?人間はいつの時代も、他のどんな娯楽があろうとも知を求める存在なのでは?

 逆に禁じれば禁じるほど人は心惹かれるもんじゃないのか?本を焼くなんてことして能動的に排除すればより本への欲求は募るのでは?その辺のことも全然描かれてないし、思想弾圧への反発だって当然あるべきで、本を密かに持っている人間が集まって何らかの地下活動を…くらいな流れを期待してたらようやく集まったところで都市に爆弾落とされて愚民全滅、俺たちだけ生き残った!終了ー、って感じだし、集まった人間もかつて本好きだった老人(男)ばかりでレジスタンス感ゼロだし、期待外れすぎる。

 

 まあオーウェルの『1984』と比べながら読んだところがあったので、個人的な感想としては、比べるとかなり格落ちでした。私は本好きでそれなりに読むけど本はただの娯楽だと思ってるし、教養なんて身に付いているとは思えない。読んでも基本忘れるし、あんな風に本から引用してべらべら喋りまくることは一生ないだろうよ。私より本読まなくたって頭いい人や話がうまい人、友達多い人や行動力ある人はいっぱいいて、それでいいじゃんとしか思わない。逆にいつの時代だって、どんなに他の娯楽が台頭してきたって本を読む人はいるよ、そりゃ。ただそれだけのことでは。それを大げさにして「本を奪われた世界とは…」ってやりたいんだったらもっと納得のいく世界を構築して見せてほしいです。

 

 個人的な解釈としては、これは現実拡張小説として読むべきなんじゃないのかと思ってます。主人公は実は小説世界を俯瞰している自分なんです。読者ね。で、主人公(私)は、自分は読書によって高い教養を得ているひとかどの人物であると自己評価している一方で世間では評価されていないことにルサンチマンを抱いていて、テレビやYoutubeに溺れた大衆を馬鹿にしてるわけ。マスメディアは愚民に媚びているから低俗なものしか生みだせないとか思ってんのね。そこで、仮想空間メタ現実においてシミュレーション実験を行うことにします。ここは教養高い文学と見れば片っ端から焼いていく世界で、本を読まないと人間はこんなに馬鹿になるぜ!って眺めて悦に入ることが目的です。メインキャラはモンターグで、こいつは本を焼く係。で他のキャラはモンターグの妻とその友人(全員無職)、老女(無職)、フェイバー(無職)、ベイティー(本を焼く係)。基本無職か本を焼く人しかいないんですが、別にシミュレーションだし詳細な設定は面倒だからそんなもんでいいでしょう。排除すべき高尚なものと与えてもいい低俗なものは私の独断と偏見で決定します。食糧は適当に供給し、医療や治安維持を含めたインフラにはどう考えても高度文明が必要なので、必要な時だけチラつかせてモンターグに「外部」の存在を匂わせます。でもまあ全然気づかないでぼーっと暮らしてるんですね。やっぱりバカだなあとか思いつつも業を煮やして楽園の蛇、クラリス(子供なので当然無職)を投入し、知恵の実の存在を気付かせます。でそこからモンターグが知恵に取りつかれていく様子を見守り、ベイティーが焼き殺されるシーンでは喝采を叫び、ついにモンターグは失楽園に至ります。あー楽しかった、ってことで辻褄の合わない実験場は適当に消去して終わり。やっぱ本読まなきゃダメだよね、本がない世界って怖いなー。本を読まない奴にこそこういう教訓が必要なのにそういう奴は読まないんだよね。まあ自分は読んでるからそういう奴らとは違うし、教養もあるしこの世界の怖さが分かるのはさすがだよね。

 っていう結末を更に俯瞰して、こいつキモくないですか。