「一首鑑賞」の注意書きです。
193.その頬は夜空あおぞらうつす頬 いらないよ、一輪挿しの言葉は
(大森静佳)
砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。
ただぼーっと、かっこいい歌だなぁ、と思って眺めていたのですが、鑑賞文にはこうありました。
とてもびっくりした。それを拒むのか、と思ったのは、きっとわたしだけではないでしょう。
そうなのか。なぜびっくりしたんだろう、と思ってさらに読み進めてみると、
倒置によってますます強調されるそのフレーズを見たとき、短歌というものはすべて「一輪挿しの言葉」ではないのかしら、と思ったものだから、最初に申し上げた通り、とてもびっくりしたのです。
とあります。つまり、「一輪挿しの言葉」を「短歌」と認識したから、「いらないよ、」という発言に「とてもびっくりした」と。
ちなみに鑑賞文ではその後「一輪挿しの言葉」と「いらないよ、」を更に掘り下げて色々と考察されていてとても面白いのですが、私はそもそも最初に「一輪挿しの言葉」を「短歌」とは認識しなかったので、それほどびっくりしなかったというのはあります。
なんていうか、「一輪挿し」に「一対一対応」みたいな感じを受けたんですよね。AといえばB、みたいな。「一輪挿し」ってその言葉自体に「花器」の意味合いがあると思うんですが、要は花一輪を差し込むためだけに存在する器、ってことです。で、そこにあらかじめ決められた言葉を挿し込むと。でもそういうお仕着せの言葉はいらない、って意味なんじゃないのかなぁ、ってとっさに感じたんです。「その頬は夜空あおぞらうつす頬」というのも、頬にうつるのは夜空でもありあおぞらでもあり、不定形なんですよね。もしかしたらそこにあるものを反射しているのではなく、自分のうつしたいものをうつしているのかもしれない。
「その頬」の主体が自分なのかどうか分かりませんが、私は「その子二十歳」と同じく、自分自身と読んでもいいのかな、って思った。私の頬には私が好きなものをうつしだせる。私はお仕着せの言葉は受け入れない。そんな感じにも読めます。鑑賞文には最後に
光って見えたのは、そのひとがまなざす「頬」でも「空」「そら」でもなく、〈私〉のするどい意志だったのだと、そこでようやく気がついたのです。
こうあり、結局似た場所に着地した??いや、思考過程を辿ると全然違うんですけどね。ただ、この歌から「するどい意志」を読みたくなる気持ちは一緒だなって感じました。
それにしても、砂子屋書房の「一首鑑賞」を読んでて感じるんですが、人の鑑賞文ってとても面白いですね。おおまかに、
(1) 分かるー、って共感する
(2) ああ、言われてみれば確かにそうだなと納得する
(3) そんな読み方もあるんだと驚く
の3パターンがありますが、井上法子と花山周子は圧倒的に(3)ですね。自分とは全く読み方違うわ!っていつも思うのですが、それが楽しいです。永井祐とかは(2)で、これも好きです。おお、そうか!ってなるのが楽しい。(1)の人は今ぱっと思い浮かびませんが、その場合嬉しくなります。
適当にそっから引けよ 僕らには定型文が十分すぎる (yuifall)
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