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現代歌人ファイル その7-中澤系 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

中澤系 

bokutachi.hatenadiary.jp

負けたのだ 任意にぼくは ひろびろとした三叉路の中央にいた

 

 これも「負けた」歌です。任意に負けたのか…。「負けるしか」ないのではなく、「望んで負けた」という感じがします。そういう意図で作られたかどうかは分からないのですが、戦って勝つことに意味なんてない、という感じを受けます。それは中澤系に限ったことではなく、若手歌人と呼ばれる人たちの歌全般にそんな雰囲気を感じるような気もする。それはもしかしたら、欲しいものは戦って勝ち取るべき、という従来の生き方に対するアンチテーゼなのかもしれず、だからこそ必死さがない、必死に生きた経験がない、って批判を受けたのかもしれません。

 私自身は「がんばっちゃう」方だから、もしかしたら本当の意味でこういう人たちの気持ちに共感できてはいないんじゃないかという気もします。はじめから戦う気がない、負けていてもいい、っていうある種のスマートさにはすごく憧れるけど、じゃあそこに何が残るのか、って考えたら、やっぱり「ひろびろとした」、何もない、「三叉路の中央」、つまり、目的地では(おそらく)ない場所に立っている、という状態でしかないんだろう。

 

かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ

 

 これは面白いですね…。言われてみればそういうことなのかもしれません(笑)。かみくだく=唾液まみれか…。こういう言葉に出会うとびっくりします。そうか!ってなるわ。

 しかし一方で、この人の歌というかこの人に象徴される時代を反映した、いわゆる「システム」的な言葉を素直に受け止める感性が私にはすでにないと思うことも多いです。解説には

 

中澤の目に映る世界は、巨大なシステム網に覆われている。それはデジタルな判断をもって人間たちを分別することの繰り返しであり、そのような日常は永遠に終わることがない。宮台真司が言うところの「終わりなき日常」である。それでもぎらついた目で世界を見つめ続け、苛立ちのような静かな攻撃性を歌の中で発揮しようとする。

 

とあり、この人の歌は穂村弘の『ぼくの短歌ノート』でも「牛乳パック」の歌を例に、「システムへの抵抗」という形で取り上げられていました。だけど、私には多分「システム」というある種の共通概念そのものが理解できていない気がする。『ぼくの短歌ノート』の「システムへの抵抗」の項目も理解できなかったもん。

 

ぼくたちが無償であるというのならタグのうしろを見てくれないか

 

っていう歌なんか、「ぼくたちが無償である」と言われていること前提だけど、私はその視点に共感できないし、ぼくたちに「タグ」がある、という発想自体がなんというか、「中の人」とか「人にファスナー」みたいなノリ?って感もするし…。

 でもなー。これは今だから思うことなのかも。この人がリアルに生きてきた時代は、「タグのうしろ」は「お約束」ではなくて前衛的な感覚だったのかもしれないとも思います。歌集が出たのは2004年ですからね…。この記事も2008年ですし。なので、時事詠的な観方で読むと違った感じを受けるのかなという気がしました。なんというか、90年代の空気感なのではないかなぁと。

 

 色々書いておいてなんですが、この人の歌、本当はすごく好きです。でも、やっぱり、これは本当に残念だと思うのですが、同世代を生き、この歌に若くして出会っている人と同じくらいの衝撃、あるいは共感は持ち得ないと思う。逆に言うと、もしそうだったらものすごく衝撃を受けて、心をぎりぎり削られただろう、という言葉が並んでいます。私がこれ以上どうこう書くよりも、若い人に直接出会ってもらって、色々感じてほしい歌だなって思います。

 

 「デジタルな判断」というのは「ゼロかイチか」、つまりグラデーションなく人を「〇×」「Aランクor Fランク」に分類するということなんでしょうけど、おそらく実質的には「プラクティカル」という意味合いかなって思うんです。

 マイケル・ルイスの『マネー・ボール』という本を読んでいて、人を徹底的にデータで分析し、主観を排してデータからスカウトすることで安く強い球団を作り上げる、っていういわばサクセスストーリーだったのですが、こういう「システム」みたいなものの根底にあるのはコストパフォーマンス的な意識なのかなと。人間をパフォーマンスとして見て、コストに対するキックバックを分析する姿勢というか。でも、そのように要約してしまうとそれこそ「デジタルな判断をもって人間たちを分別する」ということになりそうですが、実際は、高い評価を下した選手を獲得するための交渉術はかなり泥臭い駆け引きだったし、その分析によって今までスポットライトが当たらなかった人がスターになる、っていう側面もあって、面白いなって思ったんですよね。

 「デジタル」「システム」の向こうには必ず人間がいて、言葉の向こうに人がいるように、プログラムの向こうにも人がいて、その思惑、その主観に基づいた選別が行われているんだと。そしてその手を使っても必ず勝てるわけじゃないあたりがまた面白いなって思いました(笑)。

 解説の、「それはデジタルな判断をもって人間たちを分別することの繰り返しであり」という文章には主語がありません。主語は「それ」であるのかもしれず、「それ」とは、「中澤の目に映る世界」もしくは「巨大なシステム網」を指す言葉なのかもしれません。ですが、主語は、「人間」でしかありえないと私は思う。「システム」的なものに思考停止させられているという感覚も、「デジタル」的な判断を盲信することも不合理ではないでしょうか。なぜならそれは、「誰か」の判断に従っているのと同じだからです。

 

 今でもこういう、「システムへの抵抗」と言われるような歌を詠む歌人っているんだろうか。それとも、これは時代の産物だったのか、あるいは中澤系本人の背景に由来する感覚なのか、どうなんでしょうか。今では「システム」の脆弱性が当時よりもよりはっきりしてきており、「システム」そのものへの信頼性が揺らいでいる感じもします。まー、「システム」がよく分からんのでこれ以上語れないわ(笑)。

 

 

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