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現代歌人ファイル その169-小島孝 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

小島孝 

bokutachi.hatenadiary.jp

手首切るにはしあはせすぎるバターナイフバターのなかに突きたててをく

 

 この人は、解説の冒頭に「28歳の若さで病死している」と書かれており、しかも「かばん」入会の翌年に亡くなっているということで、全体を夭折という先入観で読んでしまうのですが、この歌が特にどきっとしたやつです。

 バターって黄色くてやわらかくてこってりしてて、バターナイフはそれを掬いとるためのものであって何かを切りつけるためのものではないんですよね。「手首切るにはしあはせすぎる」って、確かにそうですね。しかし逆説的に、バターナイフで死のうと思ったら相当しんどい思いするだろうな…。かなり強固な意志を要しそうです。

 

ドアたたけばドアたたくわれとドアたたかれる女とドアたたく音

 

 この歌面白いですね。こういう考え方できる人というか、こういう思考過程に憧れます。自分の側からだけじゃなくものが見られるというか。

 

わがひとに時差一時間の夕暮れはせつなかりしに〈きみを抱いていいの?〉

 

 これ読んでて、前回の小川佳世子の

 

南北に遠くあれども時差の無いオーストラリアのようなあなたか

 

を思い出しました。

現代歌人ファイル その168-小川佳世子 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ

キャンベラとは時差1時間(サマータイム中なら2時間)ですからね…。この「時差一時間」はリアルな時差なのか、そういう意味ではないのか、どっちなんだろう。もし本当に時差がある場所にいるのだとしたら、「きみを抱く」ことは難しいよね。

 

 うーん、本当は、夭折ということを過剰に踏まえた読み方をするのはあまり好きではないのですが、知ってしまうとそう読んでしまうという側面もあり…。例えば

 

救済はわれにあらずや支那竹が歯にはさまりてゐたる土曜日

 

という歌について、解説では

 

「歯にはさまった支那竹」から「救済」されない自分自身に思いを馳せる。くだらない小さなことのように見えるが、死の気配を背景にすると悲劇的な世界がたちあらわれてくる。

 

とあるのですが、この人が若くして亡くなっているということを知ってから読むと「救済はわれにあらず」が痛々しく感じる、というのは理解できる反面、この歌単独で読むとむしろ笑える感じがするし…。中澤系とかもですけど、死という要素によって自分自身の受け止め方が歪んでいる感じがして、ちょっとおさまりが悪いです。

 

 冒頭で

 

婚礼の鐘はディンドンわが指はポテトチップのあぶらにぬれて

 

という歌が紹介されています。穂村弘が何かで取り上げた歌だそうです。以下、解説を引用しますけど、

 

 穂村はこの歌に夭折の匂いを感じ取ってしまったという。実際この歌は1985年10月、亡くなるわずか2ヶ月前の日付が付されている。ほぼ辞世に近い歌なのである。それにポテトチップを詠み込んでしまえるあたりが、只者ではない才能のあらわれだろう。「ディンドン」は鐘の音の擬音である。祝福の一色でまばゆい光を放っている婚礼のなか、自分(参列者なのか新郎なのかはわからない)の指はポテトチップというジャンクフードの油で輝いている。二つの光の対立があり、そしてときにはポテトチップの油の光が祝福の輝きを凌駕することだってある。輝かしいものほど、その裏に大きな闇がある。確かに不穏さをまとった歌なのだ。

 

だそうです。

 この歌は「優子さんへのラブソング」と題された一連の最後の歌らしいのですが、「優子さんへのラブソング」のラストソングがこれってことは、これは「優子さん」の結婚式なんじゃないのかなあと思いました。好きな人の結婚式の鐘の音を聴きながらポテトチップを食べている自分、という、失恋の歌なのではと想像したのですが、この歌に至るまでの「優子さんへのラブソング」の流れが分からないのでそういう感じではないのかもしれません。わからん。

 「優子さんへのラブソング」は、解説によると、

 

詞書として1984年から入院していたことと、1985年6月に誕生日のプレゼントを選びに行ったことが記される。

 

だそうです。この歌自体は、1985年10月、亡くなる2か月前の歌なのだとか。

 そんな風に、「病床にあった」「亡くなる二か月前」という情報が頭にあると、鐘の音は幻の音だったのかも、という気がします。その日は病室にいたんじゃないのだろうか。今日優子さんの結婚式だなって思いながら、ポテトチップを食べていたのかも。そう考えると、そこには光と闇という大きな対比があるというのも確かに頷けるのですが…。

 そう思う一方で、過剰に「夭折の匂い」を読み取らなくてもいいのではないかなぁっていう気持ちもある。もしこの人が死の予感を抱えていなくても同じように歌を詠んだかと言われるとそれは違うのかもしれないけど、夭折した歌人の歌の全てに死の匂いを読み取らなくてもいいんじゃないのかなあって。

 この辺はもう「卵が先か鶏が先か」みたいになっちゃうので何とも言えないのですが。

 

 

恋をもしきみが砕いてくれるなら 体温で抱くICEBOX (yuifall)

ICEBOXの速度で溶けていく時間、悪いようにはしてくれないの (yuifall)