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「一首鑑賞」-171

「一首鑑賞」の注意書きです。

 

171.小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

 (中澤系)

yuifall.hatenablog.com

 この歌は最初『桜前線開架宣言』で知ったのですが、砂子屋書房「一首鑑賞」で黒瀬珂瀾が取り上げていて、それで色々考えたので今回引用してみました。

sunagoya.com

 文面通りに読めば、介護の状況とも取れるし、実際中澤系が難病患者だったという背景もあってそのまま受け取ることも不可能ではないです。ですが、実際文字通りの意味で受け取られるということはあまりない歌な気がします。

 

 ここでは

 

いや、むしろ掲出歌は「食」以外のあらゆる摂取について述べているのだろう。例えば「知」の摂取。読書文化に変化が迫られる昨今、インターネット空間には知識の断片がただよい、人はそれをしっかりと咀嚼することなく好き勝手に持ち出しては利用する。体系だった重厚な読書は敬遠され、簡単に解った気にさせてくれる手軽な新書が流行る。小さく刻まれた口当たりのいい情報の断片に囲まれる中で、私たちは「考える」ことを放棄してしまう。

 

いや、事態はさらに深刻かもしれない。掲出歌によれば、私たちは情報を小さく断片化する手間さえ惜しんで、人任せにする。そうやって尊大な態度で情報を享受し、肥え太る私たちは、結局その情報を小さく刻む張本人――メディアや資本や行政や――に飼いならされてゆくのだ。

 

というように解説されていました。

 

 最近よく耳にする、若者の読解力の低下、っていうのは、いつ頃の時代から言われているんでしょうね。今、ヒットする漫画や小説なんかを語る時に、「以前は言葉にせず読者の解釈に委ねられていた部分が今は心情から何から全て言葉で説明されるのは、読んでいる人間の読解力が低下したからだ」みたいな言い方をされるのを目にすることがあります。『名作文学を10分で読む』みたいな本もちまたに溢れているし、原典に当たらないで断片だけに触れ、知った気になるということもあるでしょう。インターネットにはフェイク情報が溢れているし、この歌は、自分で塊を飲み込んで咀嚼するプロセスを経ず、誰かが粥状にしたものを少しずつ摂取する、という生き方に対する批判あるいは抵抗と読めるかもしれません。他人が粥状にしたものって、いったい何が入っていて何でできているのかあまりよく分からないですしね。

 

 この歌は現代社会の「システム」自体の批判というよりも、「システム」に無自覚な人間に対する冷笑なのかなあ、って思います。「システム」自体は別にいいと思うんですよね。便利だし。それに、「現代の若者は…」って言うけど、じゃあ過去の若者は「体系だった重厚な読書」なんてどのくらいの人間がしていたんだろう。正直昔の人ってもっと粗暴だったと思うよ。「最近日本人の民度が悪くなった」とかネット上ではよく見ますが、戦前戦後の日本を描写したノンフィクション本とか読むと、「日本人のモラルは低い」みたいなことすごく書いてあるし。その後の昭和時代もひどいもんでしょ。昨今、何も悪くなんてなってないと思うんだよな。

 あんまりランク付けとか好きじゃないですけど、仮に話を単純化するために知識層でピラミッドを描いたとして、結局上位数パーセントに相当する人間の知識量とか読解力みたいなものは(時代補正をかければ)昔と今と大して変わらないかむしろレベルは上がっている気がする。それよりも、かつてはinvisibleだった層にも発信力が備わったことによってそこが可視化されただけではないのか、と思います。「読んでいる人間の読解力が低下した」のではなく、「かつては読んですらいなかった人たちも手軽な情報であれば読めるようになった」のではないかな。

 要は、かつては粥さえも摂取できない人たちが大量にいたわけです。というよりも、かつては粥が存在しなくて米しかなく、それも手に入りにくかったから、手に入れて調理して咀嚼する能力のある人しか食べることができなかったのかな。だから、薄まった粥であっても多くの人に行きわたらせるための「システム」そのものを批判するのはお門違いかな、って気がする。

 

 ただ、以前橘玲の『「読まなくてもいい本」の読書案内―知の最前線を5日間で探検する―』という本を読んでいて感じたことがあるのですが、「読まなくてもいい本」っていうのは、少なくとも自分が深く知りたい分野については逆に「ない」な、って思いました。これ、多分作者は哲学とか経済に関しては明るいのかもしれませんが、理系関係についてはこれ本当か?と思うような記載や解釈も散見され、正直共感できない部分が多々ありました。私は逆に文系関係は明るくないので、誤った記載があったとしても分かりません。よって、この本を起点にして興味のあるジャンルに関しては一次ソースを当たり、事実を自分なりに解釈する必要があると思いました。誰かが子引き、孫引きした文献を鵜呑みにしてはいけないな、と。だから、薄まった情報や知識や他人の解釈、AIが言ってくる言葉や(これも含めて)ネット上にある記事などは、取っ掛かりとしてはいいのですが、それ以上ではないなと。

 

 まあ、誰もがあらゆる分野のエキスパートになるわけじゃないし、別に薄い知識そのものが悪いとは思わないです。『あらすじで読む名作』みたいな本も、文学や文体のディテールを味わいたければ無意味ですが、あらすじだけを知りたい人には便利だし。

 私は短歌をアンソロジーで読みますが、これだって「薄い知識でドヤりやがって」って思う人はたくさんいると思うんですよね。それは実際、事実です。他人の咀嚼した解釈、他人の選んだ歌を読んでいるわけですから。でも、これは私にとっては趣味なんで、別に構わないと思ってます。おいしいお粥です。これどういう意味?って思った歌もネットで検索すれば色々な解釈を知ることができていい時代だなって思います。このコーナーも、基本的には誰かの解釈を味わってその上で色々考える形式をとっています。まあ、時々は口を大きく開けて、素材のまま咀嚼してみるのも楽しいのかなって思い始めたあたりでしょうか。

 

 ここまで書いてて後から更に色々考えることがあったのですが、もしかしたら「あらかじめ刻んでおいてほしい」というのは、逆に、自分が欲しい情報しか欲しくないということかもしれないとも思った。全てを食べやすいように刻んで混ぜて、ということじゃなくて、食べにくいものはあらかじめよけておいて、ってことなのかも。要はエコーチェンバー現象みたいなことですね。中澤系の歌は未来に生きてる人って感じなので、もっと生きてほしかったし、もし生きていたら今どんな歌を詠んでいるのか知りたいなと思いました。

 

 

蝶だったことは一度もないくせにきみも毛虫を憎んでるのね (yuifall)

 

 

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