「一首鑑賞」の注意書きです。
172.電柱と塀の間をくぐりぬけパワーを出そう次のそれまで
(阿波野巧也)
砂子屋書房「一首鑑賞」で永井祐が取り上げていました。
この感覚を言葉にすること自体がすごくて圧倒された歌でした。電柱の隣を通る時に塀側を通る、とか、横断歩道の白だけを踏む、とか、歩き出す時右足から、みたいな。そういう個人的な「パワー」ですよね。みんな心の中に絶対秘めてるけど、いちいち口に出したりしないたぐいの(てか、マジで口に出すとヤバい感じになる)。
そういえば歩きスマホの人とかを歩道で避けながら歩くとき、インベーダーゲーム的な縦スクロールアクションを思い浮かべます。歩きスマホ避けゲーとかどうかな。向こうもスマホから目を上げてよけようとすることで逆にぶつかったりとか、プレイヤーも歩きスマホし始めて視界ゼロになったりとか、そういうクソゲー(笑)。
「パワーを出そう」というラノベっぽい、喋り言葉っぽい表現から「次のそれまで」という口語的でない、口に出して話したりはしない表現に変わるのも面白いです。
鑑賞文にはこうあります。
何か小学生みたいだなと思います。
(中略)
こどもみたいな感覚が詠われていると思うのですが、
いいなと思うのは、自分でつっこみを用意しないところ。「変なことだと思うけど」「こどもっぽいとは思うけど」という意識が歌の上に見えると、わりと寒くなる。
歌にもよりますけど、これの場合は読む方がつっこめるようになっていて、それがいい気がします。
ああ、真面目だからいいのか、って思った。分かるよ、って寄り添いやすいし、小学生かよ!って突っ込みやすいし。「次のそれ」が真面目な感じを強めているような気がする。「パワー」も「それ」も自分では使いこなせない言葉の使い方だなと思った。
でも、自分にはこの表現ないなぁ、って感じる時が好きです。短歌はそういう言葉にたくさん出会えるので楽しい。小説読むのもとても好きなんですが、やっぱり小説だとどうしても情景描写とか状況説明とか、ある程度のボリューム感ある描写を前提に書いてくれないと逆に読みづらいし、文章表現が多少よくてもストーリーがつまらなかったらいまいちですもんね。短歌はそういうのから自由で、書きたいことだけ書けちゃうとこがいいのかもしれません。二次小説でエモいワンシーンだけ書いちゃう!みたいな(エモいって言葉好きじゃないけど使ってみた)。
まあ、本物の歌人は書きたいことだけ書けちゃうわけじゃないのかもしれませんが。
スクロール強制アクション(しかも縦)歩きスマホを避けて早足 (yuifall)