講談社 穂村 弘著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。
コップとパックの歌
コップとか紙パックを詠った歌だけで構成された章です(笑)。この人(穂村弘)って、本当に着眼点が面白いなって思いました。だっていきなり
よくわからないけれど二十回くらい使った紙コップを見たことがある (飯田有子)
から始まりますからね…。おうってなるよね(笑)。20回くらい使った紙コップ…。洗ってはさかさまに立てて乾かしてね。確かに、そのよれよれを目に留めて、しかも歌にしてしまうっていうのすごいな。そしてその歌をピックアップしてくる感性に心惹かれます。
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に (中澤系)
も取り上げられてます。
ただこの歌、個人的にはどう解釈していいのかよく分かんなくて。穂村弘はこの項目とさらに「システムへの抵抗」という項目の2度にわたってこの歌を取り上げていて、すごい深く洞察しているのですが、それを読んでもなおこの歌の真意に納得できてない部分があります。この人が難病で亡くなったっていう先入観があるからなのかなぁ。「もう死んでもいい」っていう表現がそもそも好きじゃないというだけかもしれないけど。。
穂村弘はこの歌について
このような歌の背後には、使い捨ての効率重視的な社会システムに同化した<私>が張り付いている。 (「コップとパックの歌」)
「もう死んでもいい」には、システムの浸透の果てに生まれた感受性の逆転現象への自覚とアイロニーが見られる。生きるために「牛乳」を飲む。飲むために「パックの口」を開ける。という本来のベクトルが感覚的に逆転しているのだ。 (「システムへの抵抗」)
と書いているのですが、でもですよ。それを言ったらさ、生殖のために「恋愛」「性行為」をする、という文脈で、「もう死んでもいい」って言葉を使うのも同じじゃねーの??今あなたの腕の中にいるからもう死んでもいい、と同じノリではないか?そこにセックスではなくて牛乳パックを選んだ、ってところがセンスの違いなのかもしれないけど…。
多分私は単純に「もう死んでもいい」みたいな言葉を本質的に信用していなくて、塚本邦雄の
馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ (塚本邦雄)
ですらいやー殺さねえだろ、って思ってて、なんか塚本御大の代表歌だからうっかり納得しそうになるけど、よく考えたら殺すかなぁ…?ってなりませんかね??まあ、『短歌タイムカプセル』の感想の時にも書いたのですが、そういう気持ちが一瞬かすめることはあるかもしれないけどさ…。
短歌タイムカプセル-塚本邦雄 感想 - いろいろ感想を書いてみるブログ
しかも中澤系の場合は本当に若くして亡くなっているというところがまたなんというか色々想像してしまって…。こういう先入観ダメだよなーと思うんだけどさぁ。。
なんか、<システム>とかそういう問題じゃなくて、単純に牛乳パックの口を開ける動作すら実際にきつかったんじゃないか、だからシステムとかアイロニーとかじゃなくて本気で「今死んでもいい」と思ってたんじゃないか、って考えてしまって。その読み方間違ってるかもしれないけど、でもその生々しさにね、「あなたの腕の中にいるから今死んでもいい」と同じ空気を感じてしまうんですよ。
しかも更に言うならば、私は穂村弘の言う「システム」という単語そのものに納得してない。この場合の「システム」の定義って何なんだろう。何をもって「システム」とみなすわけですか?牛乳パックの口を「使い捨ての効率重視的な社会システム」って言ってますけど、それを開発した人がいるわけじゃん!プロジェクトXじゃん!牛乳パックの口の開け方開発した人こそ「おおっ!完璧!もう死んでもいい!」って思ったかもしれないよ!完璧に開け続ければその先に何らかの可能性は大いにあると思います!
なんか、「システム」というふわっとした言葉で黙らされてる感じがして、「みんな分かってるよね?あれだよ」みたいなありもしない幻想の共用を強要(駄洒落?)されている気がして納得できないというか…。
中澤系のこの歌も、塚本邦雄の歌も、歌そのものをどうこうというよりも、この時この人はどういう状況でどうして「死ぬ」「殺す」とまで思ったんだろう、それが知りたい、と強く思います。
ちなみに穂村弘が「システムへの抵抗」でもう一首紹介している中澤系の短歌、
駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに (中澤系)
もうーんって感じで、多分中澤系の短歌に対して私と穂村弘の好みの方向性が全然違うんだろうなと思いました(笑)。
中澤系の短歌に関しては、『桜前線開架宣言』の感想でピックアップした歌の他にも、
いつだって知りたがりやのボクらイミだとかキャラメルコーンの中の豆とか (中澤系)
秩序 そう今日だって君は右足と左足を使って歩いたじゃん (中澤系)
みたいに、好きな歌は多いんです。副腎白質ジストロフィーが、うまく歩けなくなる難病だということは知っていても。多分、自分の運命というか、歩けなくなっていく事実をちょっと突き放してる感じが好きなんだと思う。君は秩序の中にいるじゃん、僕は違うけど、って。
ほんと個人的なことですけど、短歌にはまる時っていつも自分が何かにすごく追い詰められてる時で、だから自分にどっぷりつかってる系統の歌よりも、自分の不幸を遠くから眺めてる系統の歌の方に心惹かれるような感じがします。石川啄木なんかも、どっぷり系に見えてあの人は自分で不幸を作り出してしかもそれを歌の中で増幅させて戯画化してる感がありますからね…。『悲しき玩具』って呼んだの分かる気がするんですよ。言葉を弄んでたんだよね。でもその距離感がハマったんだろうなと。中澤系の歌も、「死んでもいい」よりは「秩序」の方に心惹かれます。
ミッキーのマグカップだけ割ったよね洗って仕舞う前に2回も (yuifall)
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