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短歌タイムカプセル-松村正直 感想

書肆侃侃房 出版 東直子佐藤弓生・千葉聡編著 「短歌タイムカプセル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

 松村正直

 

忘れ物しても取りには戻らない言い残した言葉も言いに行かない

 

 この人は、プロフィールのところに「石川啄木の歌集を読んで短歌を始める」と書いてあったのですが、この歌は啄木の

 

かの時に言ひそびれたる

大切の言葉は今も

胸に残れど

 

を連想させますね。言い残した言葉は2人とも結局言いに行かなかったんだよな。

 

 この人の歌はなんとなく全体的に寂しい感じがあって、

 

あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る

 

なんかも、どうも人と距離があるような気がします。ただ後半は父になっていて、

 

声だけでいいからパパも遊ぼうと背中にかるく触れて子が言う

 

みたいな、子供や奥さんを詠った歌が優しくてじーんとしました。

 

 この人もですけど、黒瀬珂瀾や光森裕樹など、父になってからの歌がすごくぐっときます。それ以前はかっこよかったり寂しそうだったりっていう感じがする歌が多いのに、父になってからは妻子へのストレートな愛情が詠われていて、嬉しいような切ないような気持ちになる。

 嬉しいのは、特にこの人は前半ずっと人と距離がある感じの歌だったのに、後半家族を得てまっすぐな愛を詠んでいて、素直にああよかったなぁ、みたいな気持ちになるからです。で、切なく感じるのは、本当に人って今までの全てを変えられるんだろうか、って思ってしまって…。

 家庭を持って子供が産まれて今までにない愛情が沸いたからって全部ハッピーエンドなわけない、って気持ちが私にはある。かつてのこの人(松村正直)の寄る辺ない自分はどこにいったんだろう。そういう気持ちから一生逃げられるものなんでしょうか。一生、自分はここにいてもいいんだって思い続けていられるんだろうか。

 

 ただ、書肆侃侃房出版の『ねむらない樹 別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』という本にこの人の2002年に書いた寄稿文が載っていて、一部を引用しますと、

 

 私が感じていることを言えば、作品の中にやはり「私」が欲しいということだ。以前の私は、ニューウェーブの影響を受けて「私」を欠落させた歌を作っていたが、それが自分自身の心に少しも響かないことに次第に空しさを感じるようになった。「私」の存在が薄い歌を作り続けるうちに、自分が消えていくような不安を覚えたと言い換えてもいい。今ではむしろ、作品の中の確かな手触りや実感を通じて、自分の輪郭を取り戻したいと思うようになってきている。たとえ無様でもいいから、おしゃれな歌でなくてもいいから、何よりもまず自分の心に響く歌が作りたい。短歌と自分の人生とが相互に影響し合うような関係でありたいと、今は思う。

 

と書いてあるので、もしかするとこの人の本質は「寄る辺ない自分」ではなく、妻子に向けたストレートな愛情の方が自分らしい、ということなのかな、と思いました。

 

 前に岡井隆の感想の時に引用したのですが、「短歌のピーナツ」というサイトの記事で

karonyomu.hatenablog.com

 だいたい作歌の演習期というのは、先行する歌人の模倣にはじまり、しかも何人もの歌人を〈はしご〉していく。そのなかからなにものかを奪取し、自分自身のものを創るにいたったとき、はじめて一人前といわれる。この演習期の作品は技法として冴えることがしばしばある。本人の才能もあるが、先行する歌人の苦労して築きあげたのを、無傷のまま借用するからだ。 (佐藤通雅『岡井隆ノート』p.47)

 

 そうなんですよね。人はまず模倣から入るから、先達が作った技法をまんまパクることができ、結果、すぐにうまくなる。投稿とか、結社への出詠でも、まず初めはけっこう褒められます。しかし、そこからだんだんと自分の言いたいことや自分の文体を見つけてくると、技法をいちから作らなければいけませんから、一旦「へた」になり、ひとからは批判され、自分でも上手くいかない感触が出てくる。その期間を通り抜け、自分の文体と馴染んできて、ようやく一人前の歌人になるのです。

 

 また、一般的に「言いたいこと」があると、歌は「へた」になります。「言いたいこと」がない方が、技法に集中できるからです。

 

とあったことを思い出して、松村正直の言う「無様でもいいから自分の心に響く歌を」というのはこういうことなのかな、と思いました。「声だけでいいからパパも遊ぼう」の歌なんて、まあある意味そのままというか子供が言ったりやったりしたことを書いてるだけなのですが、それがこの人の心に響く歌なんだろうなって。

 

 こういう歌読むと、「いい歌」って何だろうって分からなくなります。穂村弘は『短歌という爆弾』という本の中で、「愛の希求の絶対性」について書いていて、端的に言えば「現実には成就することのない愛」ってことだと思ったのですが、じゃあこういった現実の自分の子供に向けた愛情、そこに現実にある愛情をナマにぶつけた歌には「愛の希求の絶対性」はないんだろうか?それとも、子供への愛は成就することはないわけだから(自分が相手を愛するように相手が自分を愛することは永遠にないわけだから)、それは「愛の希求の絶対性」なんだろうか?しかし子供を詠った歌が全て傑作というわけでもないし。というか子供への愛は「成就しない愛」というより「予め成就した愛」なのかもしれないし。

 「声だけで」の歌、私は好きだしいい歌だなって思ったから紹介したのですが、もしかしたら松村正直本人にとっては「無様」な歌なのかもしれないんですよね。まあ、私は誰の作品であってもわりと素直な感じの歌が好きなので、単純に好みの問題って言えばそうですね。

 

 個人的なことなのですが(前田透の感想の時も書いたけど)、これを読んで自分と短歌のかかわり方、というのをまた考えました。「短歌論」みたいなのを読んでると、時々「なぜ短歌の形式(五・七・五・七・七という詩型)でなくてはならないのか」「なぜ現代詩や小説ではなく短歌なのか」という命題を見るのですが、私にとってこれは最初からはっきりしていて、短歌という形式が一番自分のナマな感情と距離を置きやすいからです。短歌は定型に載せる過程で自分自身と距離を取りやすいから、小説とか詩とか散文よりも形式として選びやすいし、個人的にはよりフィクション性が高い文学形式だと思ってます。なので、私は多分一生「自分の文体」を見つけて「自分の輪郭」を詠うことはないんじゃないかと思います。それも自分の短歌に将来性を見いだせない理由の一つかな…。

 

 

白線の上で生きてた世界には内側があることも知らずに (yuifall)

 

 

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