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「一首鑑賞」-320

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

320.茶碗三つ並べて置くよ幸福は夕暮れに来てしづかに坐る

 (池田はるみ)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで大松達知が紹介していました。

sunagoya.com

 これがなぜ気になったのかというと、先日(けっこう前です)Xをつらつら眺めていたら、おそらく小さいお子さんがいるであろうご家庭の人がハンバーグを大中小と3つ焼いている写真をポストしていて、それに対して「子供がいない家庭もあるんだから気を遣え、こんな家に生まれた子供がかわいそう」など、見るに堪えないような悪口雑言のリプがついていてとても驚いたからです。

 鑑賞文にはこうあります。

 

 この歌では、これから夕食のご飯を盛られる茶碗が三人分あって、そこに三人が顔を合わせて坐る、というだけだ。

 しかし、そういう光景すら貴重になりつつある現代である。この「幸福」は神々しいほどのありがたさをもってわれわれに迫る。

 

 そういう光景すら貴重になりつつある、から、そこに「神々しいほどのありがたさ」を見るのか、それともそういう幸福を享受する側の無神経さや傲慢さを見るのか、受け取る側によって同じ描写があまりにも異なる意味を持ちうることにショックを受けたし、他人のそれほどまでにささやかな幸福すら許せない人がいるのかということにもショックでした。

 

 ここでは大松達知は、幸福を詠うことについて書いています。

 

短歌は悲しみを盛るのに適する器と言われる。

(中略)

しかし、もっと生きている喜びを発見して歌い上げる作品があってもいいと思う。

(中略)

 もちろん、生の辛さを十分に知っているからなのだろう、生きている瞬間瞬間を受け止めた、おおらかでゆったりとした生活賛歌、人生肯定が生まれる。

(中略)

 今の一瞬を肯定できなければ、人生は肯定できないではないか。肯定できない人生ほど不幸なものはない。今の一瞬を大切に思って生きてゆきませんか? そういう池田のメッセージが伝わる歌である。

 

 以前にも引用したのですが、嵐山光三郎の『文人悪食』にこうあります。

 

 茂吉(*斎藤茂吉は青山脳病院院長であり、精神科医として日本を代表する権威であった。社会的体面は当然ながら必要である。日本の歌人は『万葉集』の時代から社会的敗者の伝統があり、敗者でない人は、みな不幸になりたがるという傾向がある。そんな文学風土のなかで茂吉が最後まで崩れなかったことは、むしろ奇蹟といっていい。(中略)歌人としてぎりぎりの断崖に立っても、医者としての茂吉は敢然として自立して、乱れるところはなかった。

 

 歌人は「不幸であることが伝統」だと(一方短歌は「自己肯定性」が強い文学形式、とも言われており、これは「不幸である自分を肯定する」ってことなのか?)。それに対し、もっと幸福を詠ってもよいとここで大松達知は言います。

 

 目のまえにある「生活」、それを肯定し、そこに幸福を見ること。それは、本質的には茶碗が「三つ」であるかどうかとは無関係なのではないかと思います。「二つ」でも、「一つ」であっても成り立ちうる。だから、短歌もXのポストも確かにどんな受け止め方をするかは読み手の自由であるとはいえ、「三つ」であることに嫉妬や悪口雑言を投げつけるのはやはりちょっと違うんじゃないのかなぁって。

 

 幸福を詠うこと、そしてそれがどう受け止められるかということ、そんなことを色々と考えました。

 

 

歯ブラシを差し出し口を開くひとの頬にかすかにそよぐしあわせ (yuifall)

 

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