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現代短歌最前線-荻原裕幸 感想1

北溟社 「現代短歌最前線 上・下」 感想の注意書きです。

 

yuifall.hatenablog.com

 荻原裕幸

 

 この人の歌は、解説にこう書かれています。

 

八十年代後半に現れた歌人層を代表し、かつ分岐点をなす歌人としてニュー=ウェーブを牽引した一人だが、空しく明るいニヒリズム世界として、実体の乏しいサブカルチャー短歌としてわたしなどはことにも分岐点以降の短歌には危惧を覚え、計りかねている一人である。(中略)何もしないうちから噛み殺されてしまう。そういう時代の只中を生きているのだと。

 

 私はこの本を少なくとも10年以上前には持っていて(2001年発行の本ですがいつ買ったのか記憶にない…)、その頃はこの人の歌ってあまり印象には残っていませんでした。というか芸術全般、前衛作品にあまり興味がないというよりもあんまり理解できなくて脳みそに入ってこないので、多分その頃は前衛作品を読める能力が全然なかったんだと思います。まあ、今でも理解はできないけど、少なくとも印象には残るし考えることはできるのですが、当時は脳がスルーしてました。。

 いきなり歌じゃなくて随筆の紹介から入るんですけど、この人のエッセイ読んで不思議でした。『世界と波長があわないと感じたことは一度もない』というタイトルで、自分はプログラムに従って行動しているようだ、というアンドロイド的感覚がある、といったことが書かれています。でもこの人の短歌っていわゆる前衛短歌で、

 

(ケチャップ+漱石)それもゆふぐれの風景として愛してしまふ

 

みたいな作風のものがちょくちょくあって、「世界と波長があっている」にも関わらずこういう感覚が降ってくるっていうのはどういうことなんだろう、と、分からなくて。

 この人はそこそこ都会生まれ(名古屋と書いてありました)で、(おそらく)ホワイトカラーの純日本人男性、さらにおそらくは健常者ですから、正直最初は、「世界と波長があわないと思ったことはない」ってそりゃああなたが既得権益をお持ちの社会的強者だからそりゃあそうやがな、って感じたし、(現代の視点で読むと)やや女性蔑視的な

 

ああいつた神経質な鳴り方はやれやれ恋人からの電話だ

産みたかつたと女の論理不可解の部分ふくみて虹のごとしも

それはだつて結局つまりうるさいな毎晩ちやんと抱いてるだらう

右に左に女性華やぎわれは思ふ(愛犬+フェミニズム=0)

OLの行動原理はほのぼのと(アンデルセン吉田戦車)だ

 

といった歌はどれも気に障るし、

 

群衆と呼ぶうつくしき怪獣の胃の腑のあたりわれは歩みつ

 

なんかは、俺は群衆とは違う、という、群衆をうつくしいと呼びながら蔑むというか自分だけはその中にはいないといった自己認識を感じるし、

 

倦怠に支配されたるこの街に核ミサイルを降らせてしまへ

まだ会社に慣れないせゐかオフィスでは鏡と犬が区別できない

 

なんか、ほんとにそんなこと思ってんのかよ、って白けた気持ちになってしまって。。

 なんでこう感じたのか自分でもよく分かんないんですよ。だって、いわゆる『ニュー=ウェーブ短歌』、サブカル化した短歌って、ほんとにそんなこと思ってんのかよ系の歌って大量にあるし、まあ正直自分でもそういう歌作ったりもするし(自分なりの理屈とかはあるんだけど、多分伝わらないし伝えようとしていない系統の歌)、別にそこでいちいち立ち止まったりしないもん。逆に言うと、やっぱり言葉に力があるからこそ立ち止まってしまうのかなという気もするんですよね。で、そこでさらに「世界と波長があわないと感じたことは一度もない」と畳みかけられると、ああー、そうですか…、みたいな、なんか偉い人の自慢話を聞かされたような気持ちが沸き上がってしまって。多分本人もそのことにはある程度自覚的で、

 

世界と波長があわないと感じたことは一度もない。でも、だからと言って、それだけでは何も掴めない。むしろ世界とのずれは、さまざまな行為のモチベーションをささえ、その人にちからを与えているようにも思われる。波長があうことこそ、生きてゆくための大きなマイナスの要因かもしれない。

 

と書いていて、自分の世界とのフィット感にコンプレックスがあるような書き方をしています。しかしその一方で、いわゆる自虐風自慢というかマウンティングの気配を強く感じ取ってしまい、さらに続く

 

自分の努力がどのくらい報われるか報われないか、あるいは成功を得るためにはどのくらいの努力をしなければならないのか、どのあたりまで進むと自分は壁にぶつかるか、というようなことが、根拠がないながらも確信されてしまって、何をしようにもちからがうまく出せなくなる。前述のアンドロイド的感覚にしても、おそらくはこのことと深くかかわりがあるのだろうと思う。

 

という記載を読むと、それって単なるミドルエイジ・クライシスなんじゃねーの?そんなことで「世界と波長があわない」と感じない僕ってもしかして特別な人やろ?感出されても、って、最初は思ったんです。

 でも、やっぱりこの人のパワーというか作品を生み出す発想の根源は絶対にそれだけじゃないはず、と思いながら歌やエッセイを読んでいて、すごく好きな歌もあるし、こうやって人を立ち止まらせる強さもあるわけだし、一体(私の中での)この不思議な噛み合わなさはどこから来るんだろう、ってずっと考えてました。

 

 実はこの記事、もう3回以上大幅に書き換えていて、最初に書いたのが2020年の夏頃ですけど、それから1年ほどの間に何度も大きく考えが変わっているので、自分でもおそらくこれが最終結論ではないのではないかと思ってるし、今後また考えが変わることもあるんだろうって思います。多分きちんと「短歌史」みたいなことを理解しないと結論は出ないのかなって気もするし、そもそも 荻原裕幸という人のことをよく知らないから分からないこと、誤解していることもあるのかもしれないと思ってもいます。だけど誰かのことをよく知らなければその人の随筆についての感想も書けないというのも違うような気もするし、とりあえず現状なんとなく感じてることを書いておきます。

 

 この1年くらいの間、色んな短歌を読んだり、この人の作品に限らず色々な人の作品や解説、エッセイを読んだりして色々考えたのですが、今回また考えを変えるきっかけになったのは、竹村公作の

 

突然に痴漢呼ばわりされたので彼は自分が男と知れり

 

という作品に出会ったからです。私この歌を読んでかなりショックだったんですよね。ああ、男性って、「痴漢呼ばわり」されるほど大人になるまで、自分を「男」だって知ることなく生きるということができるんだ、って。多分女性でこういう感覚を持つ人っていないんじゃないかと思います。幼いころから、自分が「女」だってことを知らされながら生きているから。「お前は何者である」ということを社会から突き付けられずに生きていける人もいるんだ、と知ってびっくりした。歩道歩いてて、健常者であれば全く意識されない道の傾きやでこぼこに、車いすやベビーカーを押したり、松葉杖で歩くことになったり、目が不自由になったりして初めて気づくっていう経験ある人もいるかと思うのですが、要は「この道が決して平坦ではない」ということに今まで気付いていなかったということは特権ですよね。荻原裕幸がこのエッセイで言う「世界」の定義が分からないのですが、彼は「この道が決して平坦ではない」ということを意識せずに生きられる人なんだと思いました。

 以前『ぼくの短歌ノート』の感想で引用したのですが、嵐山光三郎の『文人悪食』の中で、斎藤茂吉について

 

茂吉は青山脳病院院長であり、精神科医として日本を代表する権威であった。社会的体面は当然ながら必要である。日本の歌人は『万葉集』の時代から社会的敗者の伝統があり、敗者でない人は、みな不幸になりたがるという傾向がある。そんな文学風土のなかで茂吉が最後まで崩れなかったことは、むしろ奇蹟といっていい。(中略)歌人としてぎりぎりの断崖に立っても、医者としての茂吉は敢然として自立して、乱れるところはなかった。

 

と語られていました。これは正直「短歌史」を知らない私には論じようがないのですが、短歌って、どちらかというとハイソサイエティの娯楽のような気がするんですよね。貴族の遊びというか。古代から近代においては、少なくとも字が読めて書けて使いこなせる人間の文化だったわけだし、同じ文字の遊びでいうとどちらかというと庶民には川柳とかの方がなじみ深い感じがする。まあ、これは本当にただのイメージにすぎないんですけど。その中で「社会的敗者の伝統があり、敗者でない人は、みな不幸になりたがるという傾向がある」っていうのは、つまり、ハイソサイエティの中での不幸というかさー。貴族で食うには困らないけど心の空白がある的な。同じく『ぼくの短歌ノート』の感想で引用したのですが、『文人悪食』では石川啄木について

 

啄木の歌は、誰にでもある実生活の挫折した隙間に、殺気をもって斬りこむのだ。誇張された想念は、ここでは圧倒的な力を発揮する。啄木はハイカラである。辛酸をなめつくす貧困のなかからは、啄木のようなハイカラな歌は生まれない。(中略)啄木の分不相応な贅沢と傲慢、あるいは過度の貧乏幻視は、あたかも言葉の化学反応のように結合して、透明の結晶となった。

 

とあって、つまりは本当の貧困、本物の不幸の中からはハイソサイエティの芸術は生まれないんじゃないかと思ったんです。山田航は『桜前線開架宣言』で

 

短歌とは(ひいては芸術とは)「生き延びる」ためではなく、「生きる」ための技術であると穂村は考えている。そしてこれに反対する歌人はほとんどいないだろう。

 

と書いてます。私はそんなに短歌史とか詳しくないけど、これは違うんじゃないかって今のところ考えていて。特に近代の「前衛短歌」っていうのはある程度政治的主張を持った、「生き延びる」ための技術だったはず。結局のところ穂村弘の言うところの「生きる」「生き延びる」とは、ブルジョアジー/プロレタリアート、ってことで、短歌が「生きる」ための技術である、というのは、「生き延びる」ための努力をする必要のない人間の娯楽であるという発想なんじゃないだろうか。それがニューウェーブ以前と以降を分断していて、恐らく前衛短歌くらいの時代までは、自分はプロレタリアートである、あるいはブルジョアジーであっても「社会的敗者」であることを追求する、というか、短歌とはもっとエッセンシャルなもの、実体のあるものであって、「生き延びる」技術である、政治的主張である、という感覚があったんだと思うんですけど、ここにきて

 

空しく明るいニヒリズム世界として、実体の乏しいサブカルチャー短歌

 

である「ニューウェーブ」は、もはや「社会的敗者」であることすら追求していない、「世界と波長があわない」と感じたことはなく、社会から「お前は何者である」ということを突き付けられずに生きてこられた、都会生まれ、ホワイトカラーの純日本人男性たちによるムーブメントだったのかなと思いました。だからこそ「ニューウェーブ」に女性は含まれなかったのかなと。女性や性的マイノリティ、人種的マイノリティ、ハンディキャップドパーソンなどの社会的弱者が発する言葉はある意味では政治的主張であって、それは「生き延びる」ための技術ですよね。「生きる」ための娯楽ではない。そこからは「ニューウェーブ」は生じえない。例えば男性と女性が同じような内容の歌を詠っても、女性の歌は「フェミニズム」という側面から解釈されることもある一方で、男性の歌が「マスキュリズム」と言う政治的な観点から解釈されることはあまりなかったのではないでしょうか。

 

 近代から現代まで、前衛短歌やニューウェーブなどの大きなムーブメントがありましたが、もし次に大きなムーブメントがあるとしたらどういう人たちが担い手になるんだろうなって思ったりします。そしてどういった方向がいわゆる「文化的成熟」なんだろうなって。社会的弱者の政治的主張として「生き延びる」ために言葉を用いる方向にある意味逆行するのか、それとも「生きる」ことをさらに追及し、突き抜けた言葉遊びへと向かうのか。次回の個人的短歌ブームが来るまで楽しみに待とうかな(笑)。その頃にはまたものの見方が全然違くなってるかもしれないし。

 

 

この場合「世界」の定義はなんだろうきみには短波が見えるらしいね (yuifall)

ないものはなくせないのに 『きみよりも愛してる』ってあなたは歌う (yuifall)