講談社 穂村弘 著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。
慎ましい愛の歌 その2
この章は解説文が興味深かったです。以下引用ですが、
1980年代から短歌の世界に、それまでの文語とは異なる日常的な口語を用いた作品が目立ち始めた。作り手は二十代の若者たちで (中略)、今振り返ってみると、口語短歌を巡る毀誉褒貶は単なる文体上の問題ではなかったことに気づく。(中略)口語系の作者の作る歌の背後には、ほとんど無意識的な欲望の肯定があった。高度経済成長期に子供時代を過ごし、バブル期に青春を迎えたこの世代は、感受性の中に欲望の肯定を織り込まれている。
引用終わり。とあって、深く納得しました。当時口語短歌が批判された背景も、そしてこの60年代生まれの歌の自由さは確かにブレイクスルーだと思う反面、共感が難しいと思う理由も。以下、また引用ですが、
幸か不幸か、やがてバブルは弾けて、そうした傾向は頭打ちになった。その後、より若い世代による欲望の抑制や断念を感じさせる口語短歌も現れた。だが、戦前生まれの歌人に見られるような意識と感覚の慎ましさは当然ながら甦ることはない。
引用終わり。とあって、やっぱり世代的背景ってあるよなぁと。『桜前線開架宣言』で紹介されていたBorn after 1970世代はここで穂村弘の言う「より若い世代」に該当するわけで、要はバブル後の長く続く不況の諦め感漂う世代の一員なわけですけど、それでも便利さや手軽さに慣れた世代ではあるわけで、戦前とは全く価値観が異なりますよね。自分自身も、
秘密めき妻いふあはれ内職の手袋に血のしみつけしこと (田谷鋭)
ましろなる封筒に向ひ君が名を書かむとしスタンドの位置かへて書く (馬場あき子)
のような歌は絶対に作れないなと思いました。前回と今回の「慎ましい愛の歌」の章はなんとなく身につまされるというか、「古き良き」って言葉好きじゃないんですけど、でもその時代に確かに存在した一つの美しさにこうして触れられることはありがたいなと思います。
病みやすき我にあなたがさしかける晴雨兼用傘 手を沿える (yuifall)