「短歌と俳句の五十番勝負」 感想の注意書きです。
花桐や夕ごころとはうらはらの (堀本裕樹)
最初、「花桐」と「夕ごころ」のどこが「うらはら」なのかよく分からずに読みました。エッセイには二首の俳句を引用しながら、岐阜をドライブした思い出が語られます。
桐の花が現れるたびに、僕は眩しく目を凝らした。落葉高木の桐は気品に充ちた樹形をしており、筒形のその紫の花はどこかしら憧れのような気持を抱かせるのだった。
俳句では「花桐」とも呼ばれて詠まれるが、夕暮れになって心がどことなく沈鬱としてくるなかでも、桐の木は揺るぎを見せない。姿勢を正したまま夕日にその紫を掲げて、なお凛々としている。
とありました。確かに、「桐」といえば神聖で高貴なイメージがあります。中国では「鳳凰がとまる木」とされているのだとか。とすると、「夕ごころ」は薄暗く、どことなく不安定な気持ち、と読むのが自然ですね。
田舎の夜道って、暗くて何もないので目印とかもなく不安になります。特にGPSマップが一般的になる前、カーナビが搭載されていない中古車に乗っていた頃のドライブで、何もない夜道を走るのはちょっと怖かったです。子供の頃は、ハンドルを握っている父が全て分かっているはずと全く疑うことなくうとうとしていられたのですが。
この句から、夕暮れの山道で凛とした桐の姿を見送りながら車で走っていく様子を思い浮かべました。今はあまりなじみのない土地でも、google mapがあるのでそれほど不安に思ったりはしません。むしろその点、google mapは「避けた方がいい通り道」は教えてくれないので、都会の方が不安かもしれませんね…。
うらはらのリスクを取れる年じゃないきみの笑顔を読んだりしない (yuifall)