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「一首鑑賞」-145

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

145.一分の黙禱はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ

 (竹山広)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で生沼義朗が紹介していた歌です。

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 また祈りの季節がやってきますね。

 

 一分、という時間の長さを普段の生活でそれほど意識することはありません。一時期パーソナルトレーニングに行って筋トレをしていたことがあって、その時はプランクとか腹筋とか、「残り一分」ってカウントしながらトレーニングすることがよくあったので、「一分」って長いな、って思いながら耐えたことを覚えています。辛いことをしているときの一分は長くて、だらだらしてる間はあっという間。でも、「黙祷」はどうだろう。

 黙祷は全然辛くないし、かと言ってだらだらしているわけでもありません。しーんとしてちょっとおさまりが悪くて、私にとっては、何かに限りなく集中しようとしている時間です。つまり、その一分間に、その「黙祷」の対象についていつも考えようとしている。終戦だったら戦争で奪われた命のことを、震災だったら災害で亡くなった人のことを。その時、「一分」という時間の短さが、あるいは長さが、胸に迫るように思われます。

 

 鑑賞文には

 

掲出歌も疑義という点でまず共通する。1分間の黙祷の間に何を思っているかは人によって違うだろう。必死に祈る人もいれば、無心の人もいるだろう。早く終わらないか願っているという不届き者もいないとは限らない。人によっては短くもあり長くもある1分間を、竹山はこの1分間は本当に1分間なのかと考える。前の歌で述べた慣習への疑義だけでなく、時間という概念そのものをも疑おうとする思考の触手が静かに伸びている。

 

とあります。同じ竹山広の歌では、

 

一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり

 

という歌があり、大松達知が紹介しています。

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 これらの歌について、大松達知は

 

 祈りとは、だれからも干渉されることないまったくのプライベートな領域である。しかし、それがシステマティックに一分と決められ、祈りの始点終点を指示する人がいるのだ。

 式典出席者は、個々の祈りはありながら、指示に従って粛々と祈りを終える。多くの人がその習慣に疑いを持たないのではないだろうか。

 

 しかし、竹山は疑った。みづからが被爆者という立場でなければ、部外者からの揶揄だと非難をうけたかもしれない。竹山が言わなければならなかったセリフである。

(中略)

 大衆が何かの指示を盲目的に受け入れ行動した結果として、戦争があり、原爆投下に至ったのではないか。それは危ない、と心の中の記憶が告げるのだ。

 

と書き、生沼義朗は

 

竹山が「深くうたがふ」のは単に常識を疑ったり認識を問い直したりするだけでなく、民衆がある指示に無自覚無批判に従う危険性に警鐘を鳴らしている。もちろんそれは太平洋戦争から広島・長崎への原爆投下に至るまでの反省および竹山自身が長崎での被爆者である自覚と責任に基づくものだ。「深くうたがふ」という、読者に強い印象をあたえる措辞が結句に置かれているのはそのためである。

 

と書いています。

 

 言っていることはすごく分かります。竹山広が自らも原爆被害者であったことを考え合わせると、当然、「黙祷」を指示されること、「一分」が形骸化することを「深くうたがふ」と読めると思う。そして、そのような従順な態度こそが戦争へ繋がったのだという苦い痛みもあるのだろう。

 だけど、私は、「戦争を知らない子供」です。私に限らずおそらく大勢の人は、日常生活の中で、戦争やあるいは他で失われた多くの命について深く思いを馳せることはないのではないだろうか。「黙祷」の一分間。戦争や、震災などの自然災害について、今後、直接その災害を知らない世代の子供たちが、一分間でも深く考えて祈る、それは無価値でもただの儀式でもないはず。

 

 被害者であれ誰であれ、「一分」を誰かに強制することは実際にはできません。全然違うことを考えていてもいいし、ただぼんやりしている人もいるだろう。逆に、「終わり」と言われた時に祈りを終える必要もないわけです。

 イスラムコーランにも儀式があるし、キリスト教だって安息日の日曜の朝に祈るものだったような。祈りに儀式があることも、それが式典で行われることも、時間が決まっていることも、間違いじゃないと私は思ってます。少なくとも私は黙祷が好きだし、そこには意味があると思っている。それは一人で好きな時間に祈るのとは違っていて、たくさん人がいるのに全く静かで、そしてみんなが同じことへ祈りを捧げていると感じられる瞬間に一種の救済があると思うからです。

 

 この歌の本当の意図はどこにあるのか分かりません。経験者でなくては語れない言葉なのかもしれないとも思う。一分では足りないのかもしれないし、始まりがあって終わりがあるべきではないのかもしれない。でも、一年に数度たった一分間だけでも祈りを繰り返すことで、心に刻まれていくものがあるのではないかとも思いました。

 

 

黙祷の最中PHSが鳴り響くこの世で救えと叫ぶごとくに (yuifall)

 

 

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