「一首鑑賞」の注意書きです。
92.母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱きしむ
(浦河奈々)
砂子屋書房「一首鑑賞」で澤村斉美が紹介していた歌です。
この人が実際に「母」なのかそうでないのか分からないまま読みました。鑑賞文にもそのことは触れられていません。
クラナッハの乳房かなしも母性とはをみなに具はる性にはあらず
という歌も引用されています。この「乳房」は、使われなかったからこそ「母性」と切り離されているのだろうか。それとも、使われてなお「母性」と切り離されていると感じるのだろうか。
鑑賞文では
ルネサンス期のドイツの画家クラナッハは、乳房は小さく、腰がくびれ、ほっそりとした独特のプロポーションの裸婦像を描いた。画家の求める肉体の「美」を形にした裸婦像を「母性」と結びつけることは難しい。
とあります。
クラナッハの絵をググると、ルネサンス期によく見られる豊満な肉体の美女ではなく、どちらかというと華奢で小ぶりな乳房を持つ裸婦像が多数見られます。解説文も「官能的」と評する人もいれば「官能とは遠い」と記載する人もあり、乳房のかたちを「いびつである」と評している人もいました。聖母子像やアダムとイブの絵も描いているようですが、この女性たちが「母」であるかどうか、この乳房で授乳したかどうかを窺うことのできる絵はありません。
この歌を、「自分は母にはなれなかった」と読むことも可能だとは思います。出産可能年齢を過ぎつつあって、もう「母性」を持つことはないのだ、と。でも、作者の事実が分からないのでどういう状況を詠んだのかは分からないのですが、「母」が発した言葉であると読んだ方がより苦しみは強くなるように思える。実際に出産、授乳、育児の経験を経てなお、「母性とふ地下水脈のみつからぬ身体」にこそ悲しみがあるのではないだろうか。
「みつからない」と述べることは、果たして「母性」への希求なのか、欠落感の表明なのか。その両方なのだろう。「女」という体をもつからこその割り切りがたい思いが、下句「まぼろしのリュート抱きしむ」で、かなしみを伴って抱きしめられている。
とあります。「女」という体を持つことそれだけで、「母性」の欠落、あるいは希求というものを嘆く、その気持ちも分からないではない。でも「母でない」ことと「母性がない」ことは違います。もし子供を持ち、母となってなお「母性」が欠落している自分を自覚したとしたら、その欠落や希求はより強くなるように思えます。
一方でクラナッハの歌の方は、「使われていない乳房がかなしい」と読めます。つまり、「母」でない乳房です。まあ、当時(中世)の貴族とかの人たちって、産んでも自分で授乳はしないっつーか育てないっつーか、乳母とかベビーシッターとかがいたんじゃないの?だから産んでも多分乳房は「母」ではなかったのかもしれない。そういう意味では同じかもしれないなって思いました。
というか、「母性」っていうのは精神性であって究極的には「身体」を超えた部分の話なんじゃないかな。もちろんプロラクチンとかオキシトシンとかそういうホルモンの話として「身体性」に落としどころを持っていくことはできますが、そういうことを言ってるんじゃないと思う。だから本当は、この人が「まぼろしのリュート」を探しているのは、「身体」の中ではなくて心の中なのかもしれないと感じました。
母性とは繭に過ぎない 呼吸するために内より引き裂くたびに (yuifall)