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「一首鑑賞」-35

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

35.今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

 (永井祐)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で黒瀬珂瀾が取り上げていました。

sunagoya.com

 前にも何度か書いたのですが、永井祐の歌の登場人物が好きです。

 

君と特にしゃべらず歩くそのあたりの草をむしってわたしたくなる

 

みたいな歌の。そのあたりの草ほしいし、なんかどうでもよさそうな感じのメールほしい。

 20代の半ばを過ぎた頃から、送らなくてもいいようなメッセージを送ったり受け取ったりすることがすごく少なくなりました。これは年齢の問題というよりも、性格の問題のような気もします。だからきっと私と永井祐の短歌の登場人物の世界は全然交わらなくて、だからこそ憧れる感じ。

 

 鑑賞文では、短歌が細かく読まれています。「今日は寒かった」の常体から、「まったく秋でした」の敬体に移り変わる心の動き。「メールしようとおもってやめる」から「する」に移り変わる心の動き。

 「今日は寒かったまったく秋でした」がなんとなく一息で読める感じがするし必ずしも五七五の形式ではないからか、あまり定型を意識せずに全体を三文節に区切って違和感なく読んでいたのですが、実際は

 

きょうはさむ かったまったく あきでした めーるしようと おもってやめる

 

までで五七五七七になっていて、「する」が完全な字余りなんですね。

 

 鑑賞文にはこうあります。

 

そして最後、さらに一字明けを挟んで、「する」という一言が置かれる。定型からはみ出た尻尾のような一言により、その《小さな衝動》に捕われる自己の姿がダイレクトに描かれる。まったくもって小さな出来事、小さな時間に訪れた小さな心の動き。それをスパッと切り取り、生々しく見えるように再構成して、読者に届けて見せる。そこにこそ、徹底した自己観察を行い、それに適した修辞を精緻に組み立てる永井の手腕がある。そうして、「特別ではない自分」にとっての、〈日常のポエジー〉が追究されるのだ。

 

 『桜前線開架宣言』でも書かれていましたが、当時永井祐のスタイルは批判の対象だったらしいです。それはおそらく、「特別ではない自分」の「日常」があまりにも、近代から続く短歌のコードである「一人きりのかけがえのない自分」とかけ離れていたからだ、ということかもしれません。これは多分世代的な傾向でもあり、笹井宏之『えーえんとくちから』の解説でも穂村弘が似たようなことを書いていました。

 だけど今読むと、描かれた人物がすごく魅力的に見えるんですよね。すっごく月並みな言葉で言うと「等身大だから」なのかもしれませんが、これって、日本の不景気と関係あるのかなぁ。バブルを経験した世代がロスジェネ世代の『日本の中でたのしく暮らす』を批判したけど、その後のミレニアル世代、Z世代から見るとまだきらきらして見える、みたいな。

 うーん、でも分からないな。Z世代は上の世代に憧れたりしなさそうです。私の憧れは、単なる、「自分にはなかったパラレルワールドの青春」への自己投影かもしれません。

 

 

いつかまた出会うだろうね、ありがちなブログパーツの見出しになって (yuifall)

 

 

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