「一首鑑賞」の注意書きです。
398.祈りとうことを久しくせざるかなせめて机上の土鈴を振らむ
(三井修)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで大松達知が紹介していました。
いつも「祈り」ということを考える時、遠藤周作の『沈黙』を思います。
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって
言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
まさに踏み絵を踏むシーンなんですけど、どうしてかな。これが頭に浮かぶんですよね。自分の中の最も美しいものを裏切りながらそれでもなお許されるという点に究極の救いがあるのか?と単純に考えたのですがそれも何か違う気がする。
この歌で詠われているのはもっと原始的な「祈り」に感じます。
ここで作者が「祈る」と言ったのは、なんらかの目的があったり、具体的なイメージがあったりする「祈り」ではないだろう。
ただ、心を落ち着かせてみづからを浄化させる静かな瞬間。何かを求めるのではなく、求めることを止める瞬間。
(中略)
「せめて」と言っているけれど、「祈り」の中のもっとも必要な要素は、土鈴を振るような行為で体現されるのではないだろか。
鑑賞文にはこうありました。多分そうなんだろうなと思う。そしてこの土鈴がもし壊れてしまっても祈りは奪われないんだろう。そんな風に思いました。
ここにいる滅びたことばで紡がれた誰にも届かない詩になって (yuifall)