「一首鑑賞」の注意書きです。
211.勝ち負けの淡くなりゆくわが生か 水木の花もいつしか終わる
(三井修)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
なんか分かるなあ、と思ってしまって悲しいです。誰かとの勝ち負けというよりも、自分自身の限界が見えてしまっているような感じ。そういう意味の歌なのかは分からないのですが、自分自身のそういう感覚と重ねて読みました。勉強すればするほど上は遠いなあって思い知らされるし、なんかもう勝負する気も失せてくるというか…。勝ち負けじゃない、のかもしれませんが、でも自分は別にオンリーワンというわけでもないし、月並みなこと言わせてもらえば「自分に負けてる」なって思う。でも、「淡くなりゆく」からはそれでもいいか、っていう思いも感じます。
しかし、水木の花の開花時期をググってみると、5月~6月だそうです。つまり初夏。花が終わると盛夏がやってきます。ということは、この歌の主人公はようやく青春が終わったあたりなのではないか?という気もしないではないです。そんな時期に、勝ち負けが淡くなっちゃうのはちょっと枯れすぎじゃないのか?と思うのは感覚が古いのかな。
でもなあ。もし「水木の花」じゃなくて、撫子とかコスモスとか秋の花だったら、ああ、これから冬かあ…、じゃ、仕方ないな!ってなって、あんまり引っ掛かりのない歌になっていたかもしれません。鑑賞文には、
かつて、主人公は人生の勝ち負けを意識することがあった。
それがこのごろは、一歩ひくような心持ちになっている。或いは、なにが勝ちでなにが負けなのか、はっきりとわからなくなった自分に気づいた。
主人公の心境の変化には、季節のうつりかわりが微妙にかさねられている。
水木の花が終わる頃、さわやかな初夏は過ぎて、季節は梅雨から盛夏へと向かってゆく。
淡い一首ではあるが、枯れてはいない。
自身をみつめる壮年の男の横顔もそこに浮かんでくる。
こう書かれています。ここでは「壮年」と読まれていますね。そして「枯れてはいない」と。ちなみに壮年前期は30-44歳、壮年期は40-64歳らしく、まあー、確かに「初夏が終わった」頃かも。
じゃあ、私もまだ「枯れてはいない」と思ってがんばろうかなって思いました。歌を読んでというよりも、この鑑賞文を読んで。
空蝉を拾ひ集める幼子に我が影の射す夏のゆふぐれ (yuifall)