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「一首鑑賞」-330

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

330.死者に逢ふ、ことだつてある……… 写真帖(アルバム)を繰るやうに街角を曲れば

 (石井辰彦)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで黒瀬珂瀾が紹介していました。

sunagoya.com

 最初は「アルバムをめくれば死者に会う」んだと思って読んでいたら、「街角」でした。そうか、アルバムを繰るように街角を曲がり、そのたび死者に出会うこともあるのか。記憶がよみがえる、と読み替えてもいいんでしょうが、詩的な表現でどきっとします。

 

 この「一首鑑賞」は、この歌そのものもですけど、他に引用されている歌や鑑賞文も含めて面白いと思いました。まず

 

美しい思ひ出? 戦友の死さへ…… 生きて、今、在る、者にとつては

 

美しい日は(おごそか)に暮れてゆく…… 奥様が老いてゆくみたいに

 

またとない場所だ! 夜會は…… 朱鷺色の過去を構築しなほすための

 

この3首が引用されます。そして、

 

(前略)この深いニヒリズムをたたえ、吾を含めた人類を悲観する歌々は、現代短歌にあって特筆すべきものだ。石井の歌からは、生きることは死者を死なしめることであるという深い憐憫が感じられる。それはVanity Fairを日々踊り暮らし、老いねばならぬ都会人としての悲しみでもあるかもしれない。だからこそ死者は若く、いつも作者の隣にいる。

 

と読まれています。

 

 以前斉藤斎藤の『人の道、死ぬと町』を評する文として、何かに「他者の死を、自分の喪失感、悲しみのありがたみとして消費してよいのか、という激しい葛藤がそこにある」と書かれていたような気がする(瀬戸夏子の『はつなつみずうみ分光器』だったかな)。ここに引用された石井辰彦の歌を読んでそれを思い出しました。「美しい思ひ出? 戦友の死さへ……」これは斉藤斎藤東日本大震災を苦しみながら詠んだのと同じじゃないのかなぁ。

 なんでそのことが気になったのかというと、私は「短歌は自己肯定の文学である」という言説に今一つ納得しきれないところがあって、ここでは黒瀬珂瀾が「吾を含めた人類を悲観する歌々は、現代短歌にあって特筆すべきものだ」と書いていますが、人類を悲観すること、自分を否定することがなぜ「現代短歌にあって特筆すべきもの」なのか、本質的に理解できてないんですよね。自己や人類を悲観し、ニヒリズムに満ちていても文学的傑作を生みだせることは小説では明らかなのに(例えばカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』とかはそんな感じだと思う)、なぜ短歌だと特異なものとされるのだろうか。この辺分からないのでまだ考えたいと思います。

 

 

If I Die Young

血塗れの肺 きみのまだ若い死も“そういうもの”として人生は (yuifall)