「一首鑑賞」の注意書きです。
280.殺むるときもかくなすらむかテロリスト蒼きパラソルくるくる回すよ
(藤原伊織)
これは小説『テロリストのパラソル』で登場する短歌です。テロで亡くなった女性がNYの日本人会の短歌誌に投稿していた歌、という体で登場するので、単に「手がかり」という読み方しかしていなかったのですが、関川夏央『現代短歌そのこころみ』(集英社文庫)で取り上げられていたのでちょっと考えてみました。
この本の中では、 「社会詠」のケーススタディ ――岸上大作、清原日出夫、岡井隆など の章で引用されています。歌人の名前を見れば想像がつく通り、安保闘争と短歌の話がメインです。そして最後にこのように引用されます。
「戦後」が終って久しい九〇年代、「戦後」を情緒的に回顧する空気が生じた。
「学生叛乱」の時代を送った友人同士が、四半世紀のちに懸隔した立場で再会する、そんな『第三の男』の焼き直しのような設定で文学賞を受けた『テロリストのパラソル』(藤原伊織)という小説では、謎解きのカギとして短歌が使われた。
「殺むるときもかくなすらむかテロリスト蒼きパラソルくるくる回すよ」 藤原伊織
この小説に満ち満ちた感傷と自己憐憫の気配にはたじたじとするばかりだったが(「男のハーレクイン・ロマンス」と適切に評した人がいた)、この短歌の尋常ではないつたなさもまた私を悩ませた。
それにしてもなぜ短歌なのか。歴史からの安易な逃避の手だてか。
「勝者にも敗者にもあらず戦争の恐怖去らしめひとつ民族」 李正子
「軍事地図安全保障をぬりかえる握手万歳統一の歌」
こちらは二〇〇〇年六月、劇的というより、たんに唐突に行われた南北首脳会談を詠んだ歌(「未来」二〇〇〇年九月号)である。これも「社会詠」というべきなのだろう。
短歌は繊細かつ鋭敏な器である。だからこそこのように陳腐きわまりない言葉の羅列にリズムのみを借用されたときは、無残なまでの脆さをあらわにするのである。
どう思いますか?
いや、私は『テロリストのパラソル』が感傷的なのもこの歌があまりうまくないのも否定はしませんが、そもそも作中でもど素人が趣味で詠んだという設定のこの歌を、社会詠としてこき下ろす必要があるのか、そこが全然分からん。後半の李正子の歌は「未来」に投稿、掲載されているので作品として評価されてもいいでしょうが、藤原伊織の歌をどうこう言う意味ってどこにあるんだろう。
歌のうまさや下手さが問題になるのは、その作品が文学として評価される場合ですよね。正直言って伊藤園の「おーいお茶」に載ってる俳句とか、五七五のリズムに乗っていても、うまいなーと思うものにはほとんど出会いませんが、作品がこうして載ったら嬉しいだろうな、とか微笑ましいな、とは思います。読むと楽しいし、こういうのをガチでこき下ろしてる人がもしいたらちょっとついていけないって思う。Xで短歌を投稿したり結社に参加したりする人の中には、交流がメインの目的の人も一定数はいるはずで、その場合短歌の巧い下手はあまり問題にはならないでしょう。小説の中で、この短歌はミステリを解く上の一つの「手がかり」、亡くなった女性がNYで“テロリスト”、つまり犯人と会っていたことを指し示すヒントとして提示されます。そこに文学的価値がある必要があるのか?
ここでは「それにしてもなぜ短歌なのか」と書かれていますが、私の記憶によれば作中では上述の通り、ある女性がかつてNYに住んでいた頃そこで日本人会に所属しており、仲間内で「異国で日本人が集まるのだから短歌の同人誌を作ろう」みたいな感じになって詠んだ歌だったと思います。別に作中でも有名歌でも社会詠でもなんでもなくただその女性にとっての事実を詠んだだけで(だから手がかりになった)、かつ仲間内で作った同人誌にしか載っておらず、雑誌そのものの発行数も少なく持っているのもほぼ身内だけで、辿り着くまで苦労して…、みたいな状況も作中で描かれてました。なぜ短歌なのか、なぜうまい歌ではないのか、全てが作中で提示されています。異国で日本人が集まって「なぜ俳句ではなく短歌なのか」という素朴な疑問はあり得るかもしれませんが、この文脈においては「繊細かつ鋭敏な器」に「陳腐きわまりない言葉の羅列にリズムのみを借用」されることを批判しているわけだから、それは定型詩である以上俳句でも同様ですよね?だから「なぜ俳句ではなく短歌なのか」という問題ではないと思う。まあ、それも踏まえて、「なぜ短歌を手がかりとするような小説を書いたのか」ってことかもしれませんが…。
うーん、私はこの小説をもともと江戸川乱歩賞受賞作(要は単なるミステリ小説)として認識していたのですが、ここでは「文学賞」と書かれていることから多分直木賞受賞作として評価しているのかな。だから短歌が気に障るのかな。でも直木賞を獲ったのは短歌ではなく小説ですし…。独立した「短歌」、更には「社会詠」として提示されていない作品をわざわざ取り上げ、ここまで酷評する意図って一体どこにあるのだろう。それが読めなくて悩みました。
だってこういう提示の仕方で猛烈に批判されるなら、一体どうすりゃいいんだ。下手な短歌を含む作品を出版してお金取らなきゃいいのか?それとも短歌を一つでも作品に入れるなら、一首のみで読まれ評価されることを覚悟するべきと言いたいのか。あるいはこの短歌こそがこの小説のカギなのだから下手であってはならないということなのか。もしくはこの小説が流行っていた頃、この短歌が絶賛されたりしてたんでしょうか。だからいやマジかってなった?
分かりませんが、「短歌」という形式の特別さに拘れば拘るほど、あるいはその特別さが見えれば見えるほど、許せなくなることもあるのかもしれないなーとは思いました。定型詩に付き纏う問題の一つなのかもしれませんが、私にはまだ理解の及ばない領域ではあります。というか、これに関しては分からなくてもいいと思ってる。文学者にも批評家にもなるつもりはないので。
最初ここまでで終わってたんですけどどうしてもモヤモヤがおさまらん。今まで読んできた小説の中で、源氏物語とか『ショートソング』(枡野浩一)みたいに短歌も主題の一つになってる小説を除くと、作中歌(短歌、詩、歌詞など)がある作品の心当たりはごく少数ですが、そのうち詩が上手だと思ったものなんて森博嗣の『詩的私的ジャック』くらいですね。逆に言うとダサくても全然気にならん。むしろ作中で初めから「これはダサい歌(歌詞)です」みたいな前提で登場することが多いような気がする。例えば有栖川有栖の火村シリーズで『ロシア紅茶の謎』ってあって、その中で事件の関係者が作詞したという体で「愛に似た獣」って歌が出てきます。歌詞はこんな感じ
まるで氷のように私は凍てついた
ジェラシーはまるで愛に似た獣
危険な爪を持つ獣
はっきり言ってすごくダサいんですが、作中でもアリスが「なんじゃこりゃ」みたいに言ってたような気がするしそういう位置づけの歌なんだと思って全然気にしなかった。ピュアに詞というよりも一種の伏線ですし。そういえば青崎有吾『風ヶ丘五十円玉祭りの謎』の作中歌詞も登場人物からディスられてたな。こういう詞を現実の音楽批評家や詩人が「ダサい」って批判するか??しないでしょ??まあもちろん曲付きの歌詞と短歌や詩じゃ違うのは分かりますが、それは現実世界での話であって、作中歌の場合どっちも曲なんかないわけで。「短歌」の特別さってなんだ?
しかも、『テロリストのパラソル』といい『ロシア紅茶の謎』といい、ミステリ小説の作中歌って、多少ダサくてもよいと思うんだよな。普通の小説、しかも文芸ですらないミステリ小説読んでるときに、ハイコンテクストな詩歌が突如挿入されたらむしろ読みづらいんじゃ。脳がついていかないでしょ。背景は散文なんだから、それに馴染む程度のダサさで構わないんじゃないかな。逆に『詩的私的ジャック』は動機とか含め全てが耽美系の話だったし、詩とあの文体の親和性が高く馴染んでいたのでそれはそれでよかったです。ていうか森博嗣は単独で詩集も出してる人だし、要は『ショートソング』的な作中詩だよね。こっちは最初から登場人物が突如歌い出すミュージカルみたいなもんだと思って読むわけじゃん。だから、そもそも作中の短歌や詩が単独で評価されるに値するか、というスタートラインに立っているかの前提が全然違うような気がするのですが。「テロリスト」は単独で評価・批判する必要がある歌ではないと個人的には思う。
ちなみに私が一番好きな作中歌は漫画『弱虫ペダル』(渡辺航)の「恋のヒメヒメぺったんこ」ですね。
ラブリーチャンスぺたんこちゃん
ヒーメヒメヒメ スキスキダイスキ
ヒメヒメ キラキラリン
大きくなあれ 魔法かけても
ヒメはヒメなのヒメなのだ
このセンスはマジですごいなと…。アニメ化した時にフルコーラスになって曲もついてるんですが(アニメは見てないけどYoutubeで曲聴いた)、歌詞に縦読みで「よわむしペダル はこがく そうほく らぶひめ」って入ってて天才かと思いました笑。
傘なんて放り出したい土砂降りをヘッドライトに告げられながら (yuifall)