「一首鑑賞」の注意書きです。
252.ねこじゃらしに光は重い 君といたすべての場面を再現できる
(永田紅)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
この歌を読んで、
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 (栗木京子)
を連想しました。私は「君といたすべての場面を再現できる」かもしれないけど、きっと君は私といた時間のことは忘れてしまっているだろう、という気がしたから。何でかな。「すべての場面を再現できる」という言葉に、片思いを連想したからかもしれません。もし両想いで、交際していた相手だったら、すべての場面は再現できないような気がする。多分、単純に一緒に過ごす時間の長さの違いもあるし、(夢中だったりどうでもよかったりして、良くも悪くも)覚えていられないようなこともたくさんあるだろうし。片思いで、過ごした時間の長さがごく限られているからこそ、「すべての時間を再現できる」と思うんじゃないだろうか。
「ねこじゃらしに光は重い」も面白い表現だと思いました。ねこじゃらしに光が当たっていて、それで穂を垂れているように感じるということだろうか。明るい光がねこじゃらしを俯かせるように、君との思い出が私を俯かせる。そんな感じがします。でもそれは別にネガティブな意味じゃないようにも思います。私だけが、君といた時間に留まり続けている。そこが明るい場所だから。
歌集のあとがきにこうあるそうです。
そういった全てのことを私はありありと憶えているのに、私自身やまわりの人たち、そして出来事が、再現されることはもうない。(「あとがき」より)
同じことを体験しても、同じ時間を過ごしていても、私だけが覚えていることもある。そして私が忘れてしまっていることもある。私だけがこの思い出を大切に思っている、と感じる時の寂しいような、切ないような気持ちが、「光」という言葉に表れているような気がしました。
今ふと思ったんですが、この「君」ってペットとかだったりする可能性ってあるのだろうか?ねこじゃらしを見ながら、「ああ、あれでいつか遊んだな。君(猫)はもういないけど、君と過ごした時間を覚えてる」みたいな。まあ、鑑賞文にそういうこと書いていないので、少なくとも歌集の中で明らかにそういう文脈であるということはなさそうですが。
きみのこともう大半は忘れてる マーブル模様の石の階段 (yuifall)