邦楽歌詞感想の注意書きです。
作詞作曲:平沢進
二人の影の落ちて行く先
海の原子と分子に恥を知る
過去知り合う人だけに思い出す
科学と祈りのはざま
この曲は詞の引用だけを見てかなり前から知っていたものの、曲を聴いたのはサブスク時代になって音楽が手に入りやすくなってからでした。詞がとにかく好きで。書いたのは詩人なんじゃないかと思ったくらいです。平沢進をWikipediaで調べると膨大な情報が載っているのですが、
歌詞
先に楽曲を作成し、その音の制限内でテーマ上の歌詞を想像していくという手法を用いている。活動初期に歌詞を捻出するのが難しかった頃は、先に歌詞を書き楽曲を作成していたが、楽曲を先に作り「制限を重ねる」事で寧ろ想像の幅が一気に広がったとしている。
80年代、平沢が精神的に不安定だった時期にユング心理学に傾倒するようになる。以後、作品の中に錬金術や神話的・仏教的用語が使われていることや、平沢作品のテーマである「全き人格の回復」などユング心理学(及び河合隼雄、エーリッヒ・ノイマンの著書)の影響が強くなっていく。しかし、神道や仏教、その他のアジアの宗教や哲学の概念を繰り返し音楽のテーマに取り入れながらも自分の思想とはしておらず、「これは音楽のプロセスの為ですから、私の立場を既存的なカテゴリーや集団主義的な話と一緒にしないでください」としている。
歌詞作りにおいては宮沢賢治の作品が大きく影響しており、平沢の歌詞の特徴である「専門用語の多様」「言葉が描き出す世界観」など宮沢賢治の作品の構成と類似する点が多く存在する。マンドレイク時代に平沢が歌詞作りに困っていた際、じょうじマョンのボーカリストから「ぜひとも、宮沢賢治を参考にしろ。」と言う助言を受けた事がきっかけである。
音楽のリズム・パターンについては、「わたしは世の中で一番好きな音楽が『君が代』なんですけども。ああいう、先に日本語のノリがあった上で成立する音楽は素晴らしい。それはもうリズム・パターンにも影響してきますね。そういう意味で昭和初期の歌謡曲なんかほんとに歌詞の乗せ方からなにからお見事と言うしか言いようがない。」と語っている。
とありました。他にも歌詞を分析しているサイトさんがあり、
このように平沢はユング心理学に大きな影響を受けており、とりわけ集合的無意識の考え方に注目していることが分かる。
ここで、①集合的無意識では言葉を使わなくてもコミュニケーションが取れるという点について「SCUBA」の「FROZEN BEACH」の歌詞を取り上げる。
「出会いの場所はそもこのFROZEN BEACH」
「仲深まる程に消える口数 夢の合図と秘密で息をつく」
「あといくつの現を思いながら 溶けた海の底でキミに会えるか」
「FROZEN BEACH」と「溶けた海の底」の対比は、「言葉によるコミュニケーション」と「集合的無意識におけるコミュニケーション」の対比であると考えられる。まず、「言葉によるコミュニケーション」は、「意識」段階で行われるもので上手くいかないため、「FROZEN」と表現されている。一方で、集合的無意識は人類普遍のものであることから、言葉によって伝達する必要がない。よって、「消える口数」と表現されるように、集合的無意識という「海の底」に潜っていくほど言葉は不要になるのである。
このようなつながりを得た安心感からか、この時期には孤独を表現するような歌詞は見られなくなっている。また、「中期P-MODEL前期」の歌詞において消失してしまっていた、コミュニケーションの客体が再び登場していることから、一度は失われてしまったコミュニケーション手段が、集団的無意識という形で復活していることが分かる。
実際に、この頃のインタビューで平沢は「人の意識っていうのはちょうど海に浮かぶ島みたいなもので水面―表面では個人と個人がいるけれど、水面下の部分は、最後は海底でつながっているでしょ。」と発言している。ここで平沢は、意識を島、海底を集合的無意識と対比させている。
以上より、平沢は言葉に対する期待の喪失によって生じた孤独から、集合的的無意識のつながりによって脱却したのである。
そうかぁ。「仲深まる程に消える口数」とか「溶けた海の底で君に会えるか」って、単にラブソングかと思ってました。私は高良留美子の詩『海鳴り』を思い出すんですよね。
ふたつの乳房に
静かに漲ってくるものがあるとき
わたしは遠くに
かすかな海鳴りの音を聴く
月の力に引き寄せられて
地球の裏側から満ちてくる海
その繰り返す波に
わたしの砂地は洗われつづける
そうやって いつまでも
わたしは待つ
夫や子どもたちが駆けてきて
世界の夢の渚で遊ぶのを
あとはこの短歌。
人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば (新井洸)
ゆめうつつ原子に溶けて君を待つ科学と祈りのはざまの海で (yuifall)