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「一首鑑賞」-74

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

74.死ぬまえになにが食べたい? おにぎりと言おうとしたら海が開けて

 (西村曜)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で染野太朗が紹介していた歌です。

sunagoya.com

 この歌はぱっと見すごく目を引くし、ここに引用しようと思ったのは、染野太朗と加藤治郎の読み方が面白いなって思ったからです。

 

 この歌から私がイメージしたのは、ドライブです。もしくは電車とかかもしれないけど、とにかく、行ったことのない場所への旅行。多分、主人公は誰かと2人で旅行に来ていて、今までに通ったことのない道を通ってるの。だから、海沿いにいるんだってことはなんとなくわかっていても、海が見えるかどうかは分かってない。多分田舎で、景色はずっと山の中か、もしくは高速道路の防音壁で、つまんないからくだらない話してる。「ねえ、もし世界が終わるなら、死ぬ前になにが食べたい?」うーん。「おにぎりかな」そう答えようとしたとき、車窓に急に海が開けて。「あ、海だ!見て!」となってしまい、「おにぎり」の答えは宙に浮きます。多分もう答えることはないんだと思う。だって海に比べたらどうでもいいもん。

 それにしてもどうして海が見えると「海だ!」ってなるんだろうか?この後、ひとしきり「海だねー」「見えたねー」「きれいだねー」とか会話してから、「…で、死ぬ前に何食べたいんだっけ?」って会話が戻る可能性ってあるだろうか?現実的にはあるかもしれないけど、ないだろうなっていうのを彷彿とさせる歌です。

 

 染野太朗と加藤治郎は、いずれもこの歌に「哀しさ」を読んでいます。加藤治郎はある一つの読み方として、この歌がまさに「死ぬまえ」の歌であると読んでいます。

 

「(この)おにぎりの歌は哀しい。問いかけてきたのは神か。意識は薄れてゆく。「おにぎり」と口が動こうとする。その瞬間、開けた海は最期の眩い光景だ」と記す(( )内は染野注)。

 

そして染野太朗は、

 

(前略)

声にもされずに海のまばゆさに消えてしまったおにぎりはここで、はかなく消失したイメージを保ちながら、それでも海のまばゆさと拮抗するものとしていつまでも歌に存在してしまう。おにぎりは弱々しくも存在感を保ち、海は強い光を放っておにぎりを消してしまいながら悪役にはならない。「開けて」の言い差しも効果的で、まばゆさを感傷的な気分とともに歌に定着させる。

 

……とここまで読んで、僕はこの「拮抗」ということにつつかれて哀しい気持ちを味わっているのだろうな、と気づく。

(中略)

「おにぎり」も「海」もまばゆい。だから、声が失われるということを悲しんだり責めたりする隙がない。それを僕は哀しいことだと思う。なにも否定されるべきもののない世界においてただ自らの声が失われていくというありように、僕はまさに加藤の言う「意識は薄れてゆく」ということのイメージを重ねた。

 

 最初読んだ時は、自分の読み方とあまりにも違う…、と思いましたが、こうしてよく読んでみるとそれほど遠くないようにも感じます。海が開けたことで「おにぎり」は口には出されなかった、だけどそれがいつまでも心に残る、ということですよね。

 

 それにしても、死ぬ前に何が食べたいか、っていう質問たまに耳にしますが、食べたいものなんかあるかなぁ。どういう状況?

 もし自分が年取って(もしくは病気で)死ぬ寸前という状況が想定される場合は喉を通りそうなものの選択肢は極めて限られますし(てか食べられないから死ぬんじゃ?)、隕石の衝突とか何らかの理由でコミュニティごと死に絶えることが分かっている場合は、もうお店とか誰もやっていないだろうし社会的インフラを維持する人も働いてないだろうから、手持ちの材料で電気やガスや水道を使わず家で作れるものに限られます。どちらでもなく、自分が死ぬと分かっている状況というのは想像しづらい。死刑とかかな。

 「死ぬまえ」というのは必ずしも「死の直前」というわけではないのかも。「死ぬまえにしたい10のこと」みたいな、死ぬまえにしておきたい経験を聞いているのかもしれません。だとしたら「おにぎり」は逆にちょっと謎というか、今すぐにでも食べればいいやん!ってなりますね。。

 このおにぎりってどんなおにぎりなんだろうな。お母さんのおにぎり?コンビニのおにぎり?何味?人によってイメージするものが大きく違いそうな気もします。亡くなったお母さんのおにぎり、とか言われちゃうとなんかもうすみませんって感じになっちゃうもんね。

 

 

カーナビに海、視界には壁、あれはお昼ごはんの後の出来事 (yuifall)