「一首鑑賞」の注意書きです。
73.わたくしの絶対とするかなしみも素甕に満たす水のごときか
(築地正子)
『短歌タイムカプセル』で横山未来子の「かなしみ」の歌に出会ってから、「かなしみ」を詠った歌に心惹かれます。
君が抱くかなしみのそのほとりにてわれは真白き根を張りゆかむ
彫像の背を撫づるごとかなしみの輪郭のみをわれは知りしか
ふかく想へばかなしみとなるこの夜のかほを石鹸の泡に隠しつ
これらはいずれも横山未来子の歌です。他にも、
コンビニに買うおにぎりを吟味せりかなしみはただの速度にすぎず (内山晶太)
亡き人のショールをかけて街行くにかなしみはふと背にやはらかし (大西民子)
つないでゐたはずの手と言ふ かなしみは悔やむ心のかたちに残る (今野寿美)
星のかけらといわれるぼくがいつどこでかなしみなど背負ったのだろう (杉﨑恒夫)
息あつくわれをまく腕耐へてきしかなしみをこそ抱かれたきを (沢口芙美)
渡らねば明日へは行けぬ暗緑のこの河深きかなしみの河 (小島ゆかり)
かなしみのねばつく夜更けいつもいつも百鬼夜行に明け近く遭ふ (辰巳泰子)
かなしみにおぼれるやうにたしかめるやうにあなたの掌に触れてゐる (中山明)
いまだ子は棺に花零(ふ)るかなしみを知らずに夏の潮位見ている (三井修)
Die Welt(世界)とは女性名詞であることをかなしみにけり飲食(おんじき)の後(のち) (田村元)
など、たくさんの秀歌が詠まれています。
引用歌では、かなしみは「素甕に満たす水のごとき」と言っています。自分にとっては「絶対」であるかなしみ。きっとかなしみで心が「満ちて」いるのだろう。でも、それはまるで「素甕」に水を満たすようなものである、と。鑑賞文にはこうあります。
しかし、その「かなしみ」でさえ、「素甕に満たす水」のようなものだと気付いた。透明な水は形を持たず、本来は流れゆくもの。素甕に汲みいれられたからこそ、水が定まって存在する。つまり、水がそこにあるということは、絶対ではなく、ただかりそめに器の形と色に従っているにすぎない。私が頼みとする「かなしみ」も、私の内面を離れ、大いなる世界から見れば、かりそめにそこにある感情に過ぎないことに、思い至った。絶対の感情は存在しない。しかし作者はおそらく、それでも、この「かなしみ」を絶対の感情として生きてゆくのだろう。
これはとても、分かる。俯瞰してみれば、誰かのかなしみというのは平凡なものであったり類型化されたものであることが多いのだろう。しかし「甕」が水を満たすために存在する器であることを思えば、「わたくし」がかなしみの器であることもまた「絶対」であるのかもしれません。この水は、まるで甕の底から湧き出しているかのようにいつも新鮮でつめたく冷えているのではないかと想像させられます。でも溢れ出しはせず、満ちて、水面は静かなんです。
それにしてもこうやって読んでみると面白いなあ。「かなしみはただの速度にすぎず」も分かるんですが、例えば我が子を失ったなど、一生心に刻まれるような「かなしみ」だとそうもいかないような気がする。こうやってあげた歌の中にも「速度」的なかなしみと「絶対」的なかなしみが混在しているように思えます。もしかすると年齢的なものもあるのかもな、って思った。年を取って、失うべきでないものを失って、自分自身も失われ続けているということが実感できなければ詠めない「かなしみ」もあるのかもしれないと感じました。
凍る手が掴む心臓かなしみは私に生きて苦しめと言う (yuifall)