「一首鑑賞」の注意書きです。
176.花と骨、ともに描かれ砂漠にもわたしにもある泉をさがす
(山科真白)
砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。
これはぱっと見て気になったのですが(カードゲームの「髑髏と薔薇」を思い浮かべた)、解読が難しいです。というか、読み切れないです。最初は「花と骨がともに描かれている砂漠」の絵があって、砂漠にも泉がある、わたしの中にもあるはずだ、と思っているのかと思いました。つまり、自分の中にも「花と骨」があって、だからそこに砂漠との共通点を見出していて、だから自分の中にも泉があるだろう、ってことなのかなと思ったんです。
でも、もっと単純に受け止めると、砂漠―骨、泉―花、ということかなと。つまり、砂漠は生き物を骨にもできるけど、花を咲かせる泉も持っている。同じように、わたしも泉を持つはずだ、と。まあ、もっと暗喩的にというかフロイト的に読めば、花は肉体であるとも考えられます。私には骨と肉があり、泉があると。生殖の象徴ですよね。
井上法子は全然違う読み方をしています。一つの歌にこんな多くの読まれ方があるんだ、って思ったし、もっと他の解釈も知りたいと思いました。
嘘のたび指から零れ落ちる薔薇 いいえ、知らない、君の気持ちは (yuifall)