「一首鑑賞」の注意書きです。
158.ガラス一枚へだてて逢えばひとはたれもゆきずりの人となりてなつかし
(光栄堯夫)
この歌を最初に読んだ時咄嗟に頭に浮かんだのが、
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聞きにゆく (石川啄木)
でした。「なつかしい」「ゆきずり」という単語からの連想だと思います。なぜゆきずりの人を懐かしく思うのか、それはふるさとの訛の人だから、っていう。
でも、この歌では「ガラス一枚へだてて」逢っているわけで、どういう状況なんだろう。まだ「停車場」が頭の中にあったので、駅の喫茶店のガラス張りの店内から行き交う人を眺めて何かを懐かしんでいるのかな、って思ってしまったんですが、そういうんじゃない気がする。別に駅とか言ってないですし…。
この「ガラス」が要は比喩なのかな、と思いました。駅の窓口で会う人みたいに、お互い鮮明に見えてはいて、声も聞こえて意思疎通はできるんだけど、決して触れ合うことのない人。この人(短歌の主人公)は誰に対してもそういう付き合い方をしていて、だから誰のことも「ゆきずりの人」「なつかしい人」(今の自分の人生に深く関わらない人)っていう風に捉えているのかな、と。
鑑賞文にはこうあります。
下句の「ゆきずりの人となりてなつかし」が不思議な表現だ。ガラス一枚を隔てたことで「ゆきずりの人」になったと感じた訳だから、普段は「ゆきずりの人」ではない。つまり実際は、それなりに親しい人に会ったのだろう。
(中略)
そして、「ゆきずりの人」だと感じたことで、却って「なつかし」と思った訳だから、本当は懐かしい人ではない。(中略)普段ならその人と自分の間に距離や壁を感じはしないが、一枚のガラスがあることで、ふと気付かされた。本当は誰もがお互い、この現世ですれ違っているだけに過ぎない。
(中略)
この人にはまた会える、と思って私たちは人と別れる。だが、だれもが「ゆきずり」なのだとしたら、また会えるという確証はどこにあるのか。すべての逢いは、一瞬一瞬の偶然。だから、再び逢えた人は、懐かしい人だ。たとえ、昨日会ったとしても。
この受け止め方も、いいな、と思いました。何度か書きましたが、すごく好きなもの(人とか、文章とか、音楽とか、なんでも)と出会った時、なぜか懐かしいと感じることがあります。「ゆきずり」という言葉を、今会っていることは当然のことではなく、全ては懐かしく愛おしい、という読みも素敵だな、って。
だけど、どうしても、「ガラス一枚へだてて逢えば」、って思われる側の立場だったらどうかなあ、って思ってしまいます。もし私の大切な人が、私に対して
ガラス一枚へだてて逢えばひとはたれもゆきずりの人となりてなつかし
と思っていたら、すごく寂しいと思う。でも、どうだろう。もしかしたら人間関係なんて、そのくらい遠くて優しい方がいいのかもしれない。この人は去ってゆく人、と思うから優しくなれるのかもしれない、とも思った。
どこか自分の人生や人間関係から距離を取っているような印象を受けた歌でした。
いなかった並行世界 PCの付箋に一つ全角のk (yuifall)