山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
柚木圭也
メロンシャーベット抔ひをはりて咥(くは)へゐるメロンの味の残る木の匙
冒頭にこの歌が紹介されていたので、かわいいなー、木の棒噛んじゃうよね♡とか何の気なしに読んでたら最終的には
言ひ訳はだうでもいいけど椎茸の傘裏のこのひだひだがいや
となっていて、解説には
これらの歌に満ちているのは、日常にさやかに潜むグロテスクな感触である。生ぬるくてぶよぶよした「生」の感覚。(中略)食という生の根幹をなす行為の中に潜んでいるグロテスクさにフォーカスをあわせたのだろう。
と書いてあり、そうなんか…ってなってしまいました。「生」が生ぬるくてぶよぶよしてるのってグロテスクだろうか。わりとデフォルトかと思いますけど…。
口に咥えし金魚呑みこみゆくまでを見届けてゐつ歯磨きしながら
とか
土葬されし祖母(おほはは)に蟲らおごめきて食み尽くすまでのやさしき時間
っていう歌、けっこう好きです。やっぱり、「身体性」の感じられる歌が私は好きなんだと思う。前に書いたかどうか分かりませんが、曾祖母が亡くなった時、(昔のことで、なおかつすごーーく田舎だったので、)土葬でした。お墓を掘り起こした時、曾祖父の身体がまだ残っていたことを思い出します。待っていたのかも、と感じたのですが、そこにあったのがもしかしたら「やさしき時間」だったのかもしれない。まあ、明治生まれの(しかもド田舎の)夫婦の間にどれだけの愛情があったのかは分かりませんが…。ちなみにその後祖父が亡くなった時は火葬でした。
解説には
世界の中にあるありふれた一風景のなかのわずかな歪みが徐々に肥大化してゆき、やがて〈私〉の身体を蝕んでゆく。しかしそれが決して病的なイメージではなく、当たり前のことのようにさらっと流されてゆく。
とあって、実際、自分はここにいて食って排泄してやがて消えていくもの、っていうのはごく自然なことであると思います。
終日を花の雨降るこの街をつひにやさしきてのひらとして
こういう、「青春性の高いきらきらした歌」(解説より)にも「てのひら」と身体の一部が詠われています。この人は心臓病を患っているそうで(ただし第一歌集「心音」を発表したのは罹患前だそうですが…)、「重たすぎる自我が、別の生き物として心臓の上に居座ってしまったみたい。」と語っているとか…。この場合の「侵食」は、病的なイメージではなくて当たり前のこと、なのだろうか。人は死ぬものだけど、どこまでが自然なことで、どこからが病的なんでしょうね。
胸郭の震えを分けて 吐精後の抱擁 いきそうだよ心臓で (yuifall)