山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
角宮悦子
氷原をかがやかせつつ夕空は千の林檎を洗ひはじめる
膝つきてひそかに思慕をわが告げし凍土の麦よいかに育たむ
北海道、網走の出身で、1936年生まれの歌人だそうです。これらの歌は北海道の原風景、という感じも(私のような門外漢には)します。「氷原」という言葉からは真冬の厳しい寒さがイメージされますが、そこで「かがやかせ」「夕空」「林檎」「洗う」という言葉で、きらきらした、ダイヤモンドダストのようなイメージに変わります。「凍土の麦」も、米が取れない厳しい大地という感じを受ける一方で、「膝つきてひそかに思慕をわが告げし」が上の句に来ることで、この人が愛した土地なんだ、という、なんというか、厳しく寒い土地に対する温かい愛情のようなものを感じます。
しかし、
いかなるもの括り終へしか灰色の空に荒縄が揺れてゐる
乾ききる土葬墓地から人間のまなこを嵌めて野良犬が来る
のような歌も引かれており、北の大地に生きることの甘くない現実もまた感じます。多分、「網走」という土地に刑務所のイメージを重ねてしまうのもあるんだろうけど…。「括り終へし」「荒縄」に、どうしても絞首のイメージが重なります。
曾祖母がかなりの高齢で亡くなった時、当時「村」に住んでいて、村というかもう集落に近いような場所で、お葬式が土葬だったことが今でも忘れられません。埋葬のためにお墓を掘り返した時、私は会ったことのない、産まれる前にすでに亡くなっていた曾祖父が骨になってそこから出てきたことも。その後、祖父が亡くなった時は火葬でした。同じお墓に入ったのですが、その時には曾祖父、曾祖母の遺体を目にすることはありませんでした。かつては死が本当に身近だったんだと思います。
1936年生まれだったら、土葬のご遺体を目にしたこともあったのではないかな。「乾ききる」土葬墓地に対して「人間のまなこ」は、まだ乾いていない目という印象があります。目だけがみずみずしく生き残っているような感じ。野良犬が「まなこを嵌めて」というのも、犬が自分で掘り返して嵌めたって考えるとちょっとコメディになってしまうのでそうではなくて、「人間のまなこ」が犬の身体を得て蘇ったというイメージです。
汝が胸の下から仰ぎ見たるもの冠状光を放つコロナよ
あとはこんな歌もあってどきっとしてしまいましたが、この「コロナ」は「光冠」のコロナですね。
最後には「母」の歌が引用されています。
われのみのものと思はぬに寝室へ葱にほはせて行く母憎む
母の鏡割れてとどけり網走市沙名町二番荷札をつけて
母が暗いイメージとして語られるのですが、その裏には「わたしだけのものにならない母」という深い執着が窺われます。「網走市沙名町」は現実には存在しないそうです。
「網走市沙名町」という地名は、実在が確認できない。果たしてそのような町は本当にあるのだろうか。「さらわれた子供」のイメージがたびたび登場するのも気になるところである。
冷気を感じさせながら土俗性までにはいかない凛とした北方像を描写する幻想歌人として、角宮悦子はもっと読まれてもいいのではないかと思う。
と解説にありました。
脳味噌を割られに渡ってゆくのだし鳥に自由はないよ、姉さん (yuifall)
さて、『現代歌人ファイル』はこの206回で終了のようです。206人もの歌人の歌集を読みこんで解説するというのは並大抵のことではありませんよね。このコーナーで初めて知った歌人がたくさんおり、私のような素人にも届くように、多くの短歌を広く世に紹介してくださった山田航氏に改めて感謝申し上げたいです。
もっともっとこのコーナーを読みたかった、という残念な気持ちもあるのですが、山田氏のブログではこの後ご本人の活動報告が増えるので、歌人としての活動がお忙しくなったということなんだろうと思っています。最近第三歌集も出されましたね。陰ながら応援しています。
それにしても、ネット上で短歌を紹介してくれているブログっていくつか有名なものがあるんですね。東郷雄二氏の 橄欖追放は以前から愛読していましたが、砂子屋書房の 一首鑑賞 のコーナーを最近知って面白かったので、今後はそちらを中心に取り上げつつ、自分も「一首鑑賞」に挑戦してみようと思いました。
また、いずれは瀬戸夏子氏編集のアンソロジー『はつなつみずうみ分光器』もきちんと読んで色々考えたい…。これに関してはまだじっくり手を付けるモードに(自分が)なっていないので、「今!」って時を待ちたいと思います。すっごい読みたい本ほど読めない現象が今起きてて、ライトな漫画ばっかり読んでます…。