百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
六十五・恨みわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ
後拾遺和歌集 巻一四・恋四・八一五 詞書「永承六年内裏歌合に」 相模
つれない人を恨んで涙にかわく間もない袖、そのうえ恋の浮き名が立ってしまい、私の名が朽ちてしまうのが惜しい。
あなたをうらみ
恋の涙とどまらぬ日々
その上……
うわさに痛めつけられて
もうぼろぼろ
悔しい恋に泣く私
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
恨み泣き 乾かぬ袖は まだいいの
恋に負けてく 私がやなの
ずぶぬれのぼくだからもう逢はないでひかりを脱がず冷えてゆく影 (黒瀬珂欄)
解説によれば、これは歌合で詠まれた架空の恋歌だそうで、実体験というよりもテクニックに優れた一首として知られており、この歌を詠んだ時、作者はすでに50代(当時としては老齢)だったとか。こういうエピソード好きだな(笑)。まあもしかすると過去の恋愛かもしれないけど、個人的には全くの架空のエピソードと受け止める方が好きです。こういう経験がなくて、こういう風に感じたことがなくてもこういう歌ができて、それが残っていくっていうのがたまらなく好き。
『桜前線開架宣言』の記事に、「ぼく」という一人称には性別を感じさせないイメージがあると書いていた歌人がいたような気がするけど思い出せない、などと非常に曖昧な引用をしたのですが、
ここにある黒瀬珂欄の解説でした。
「ぼく」という主語に違和感を覚える人もいるかもしれないけれど、筆者としては、ひらがな書きの「ぼく」にはなんだか、性差を超えたイメージがある。(中略)いまどき「名声」もなんだし、朽ちてゆくのは「ぼく」が肌にまとう「ひかり」かもしれないな、と考えてみた。
それで、このトリビュート短歌になったのですね。「ぼく」は「ひかり」を脱げないままでずぶぬれになってしまい、そのまま冷えていって、「ひかり」が朽ちて「影」になるということだろうか。
行き先のない名だけがへばりつくあらわな肌は血潮に濡れて (yuifall)