百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
六十・大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
金葉和歌集 巻九・雑上・五四三 詞書「和泉式部保昌に具して丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼局のかたにまうできて、歌はいかがさせ給ふ、丹後へ人はつかはしてけむや、使まうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむなどたはぶれて立ちけるをひきとどめてよめる」 小式部内侍
大江山やその先の生野を通ってゆく道が遠いので、まだ天の橋立に足を踏み入れたことはありません。文も見ていません。
大江山のむこう
そして生野のむこう
まだ踏みもせず、文も見ず
丹後の国の遠ければ
天の橋立遠ければ
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
大江山 生野は道が 遠いので
まだたよりない 天の橋立
快晴の天の橋立より子に送るいつもの手振れのままの写メール (仲井真理子)
この歌は歌そのものの技巧的なうまさもなんですが、長々しい詞書が面白いです。斉藤斎藤の『人と道、死ぬと町』を読んでから百人一首を読み返してみると、「この歌にはこういうエピソードがあります」という解説で知っていたと思っていたことがだいたい詞書に書いてあって、あーそうなんだーと思いました。書いてあるやん。だから常識だったのか。
しかしこのエピソードって事実なんでしょうか。歌合で失礼なこと言われたからってとっさにこんな歌詠めるものなのか…。天才すぎん?いや、ラップバトル的な何かなのか??「生野」と「行く」、「踏みもみず」と「文も見ず」の掛詞かと思いますが、もっと色々あるのかな?
仲井真理子の解説文で面白かったのが、最後の部分です。
この一首は、我が家のカルタ遊びでは娘の得意札であった。娘の名は「いくの」。この札を他の者が取ると泣くので、「またふみもみす」は、読まれる前から娘のものであった。
すごくかわいいエピソードですね。『ちはやふる』(末次由紀)で、ちはやが「ちはやふる」、しのぶが「しのぶれど」をそれぞれ自分の札だと信じて絶対に取ろうとするシーンを思い出しました。
この歌、写メールを受け取った「いくの」ちゃんは、「もう、お母さんったらまたブレてる。本当に写真下手なんだから」って思いながら、いつか友達に「天橋立?見たことないよ。前にお母さんが写メくれたけどブレててよく分からなかった」とか言うのかなって想像しました。
この歌どうしてくれようって考えたのですが全く思い浮かばず、というか状況が特殊すぎませんか??もう今回は駄洒落に振り切った方向で作ってみました。ラップバトル的な。
DMはblock, accountはlock, きみには絶対無理ねcrack (yuifall)