百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
五十・君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
後拾遺和歌集 巻一二・恋二・六六九 詞書「女のもとより帰りてつかはしける」 藤原義孝
あなたに逢うためなら惜しくないと思っていたこの命。
(逢ったあとの)今は、長く生きたいと思うようになった。
昨日までは
君に逢えれば死んでもいい
そう思っていた
だが 君に逢えた今日
一日でも長生きしたいと思う
愛とは命なのだ!
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
君のせい 惜しくもなかった 命さえ
長生きしたいと 思っちゃったよ
逢ふことをただ願ひゐし日の遠く今は生きたし病むといへども (栗木京子)
この歌は当然、作者の藤原義孝が若くして病で亡くなった、ということが前提に読まれていて、命が短いことは分かっていたが、今は生きたい、というわりと切実な愛の歌です。栗木京子版はそこが「病むといへども」とはっきりと描写されていて、元歌よりもより具体的に作者の背景が伝わる口語訳になっています。
作者の背景を知らない場合、当時の一般的な恋の歌としても読めそうですよね。だって健康体であろうがなかろうが普通にみんな「恋で死ぬ」みたいな歌作ってるしさぁ。ですがそのまま現代に持ってきてしまうと前半の「会えたら死んでもいい」がちょっとやりすぎな感覚になってしまうので、それでおそらく「病気である」という前提を描写したのかなって感じました。
もしも「病気である」という前提を抜きにした場合、現代における恋の歌としてとらえてしまうと「会えたら死んでもいい」はやっぱりちょっと大げさすぎます。しかし、相手が子供であると考えたらあり得る気がします。親として、「あなたが無事に産まれてくるのならば自分は死んでもいいと思っていた、だけどあなたの顔を見た今、少しでも長く生きたいと思う」、っていうのはわりと普遍的な感じ方ではないでしょうか。
というわけで恋の歌じゃなくしてみた(笑)。
三十で死ぬと決めてた、だけど今まだ見ぬひとのために生きたい (yuifall)