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「一首鑑賞」-76

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

76.雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ

 (小池光)

 

 この歌はどこから知った、というのは分かりません(有名なので)。前回本歌取りの歌を取り上げたのと、「砂子屋書房 一首鑑賞」のコラムでも何度か取り上げられているのを見たので、今回引用してみました。

 

 この歌を初めて読んだ時、私が連想したのは山小屋でした。冬の間、雪は毎日毎日降り積もっていて、生活に支障をきたす勢いです。その日はどうしても外へ行く用事があって、傘を持って家の外に出る。開いた傘を持ちあげた時目に入る、圧倒的な一面の雪景色。雪ってまぶしいんですよね。暴力的な白で、ほんとうに、「むやみにあかるい」んです。で、その白さは命さえ脅かすものだし、苦しみの根源でもある。だけど、美しい。息をのんでしまう。そして、生きて負う苦を、その一瞬だけ疑う。生きることで負う根源的な苦しみなどあるのだろうか。

 「傘」は雪から自分を守ってくれるものの象徴ではないと思います。「雨に傘」と違って、「雪に傘」の場合、傘の上にさえ雪は降り積もるものだから。傘をさせば顔に落ちかかる雪は防げるけれど、片手はふさがるし、傘はどんどん重くなっていく。そこにある情景はまさに

 

行きて負ふかなしみぞここ鳥髪(とりかみ)に雪降るさらば明日も降りなむ

(山中千恵子)

 

そのものなんだけど、あえて、この一瞬の美しさに全ての苦しみを忘れ去るわけです。

 「髪に雪が降る」「行きて負うかなしみが明日も続く」「それが人の世の常である」と詠う山中千恵子に対して、「雪に傘」「このあかるさに、生きて負う苦しみを今だけは疑う」「それが私の今この一瞬である」と返している、と私は考えました。

(*「鳥髪」はもちろん地名ですが、この本歌取りから考えると、「黒髪」に雪降る、とずらした解釈で応じているのかなと思ったので)

 

 ですが、この読みが必ずしも正しくはない、というか、一般的ではないのかもしれないと他の人のコラムを読んで考えました。花山周子は

sunagoya.com

「雪に傘」には、都会的なスタイリッシュさがある。都会といっても、別におしゃれとか、人が多いとかそういうことではなくて、でもたとえばこの「雪に傘」の舞台に、田んぼ道や山道を思い浮かべる人はまずいないのじゃないか。あるいは、「鳥髪」まではいかなくとも、関ヶ原や、江戸の日本橋を思う人もいないはずである。近代以降の道路や歩道というものを思い浮かべている。つまり、この人にとっての日常の場所がここにある。

 

このように書いています。田んぼや山道でも、関ヶ原や江戸の日本橋でもない、と。私の想像はどちらかというとそっち系だったんですが(笑)。吉田隼人

ritsu8810.blog.fc2.com

 無数の、顔の見えない〈ひと〉たちが「雪に傘、」をさしむける。無数の傘が、傘だけが、開いていく。開いてはどこかへ向かって進んでいく。雪の日に傘をさしているのは、傘をさしてまで行かねばならない場所がどこかあるからだ。その場所に向けて、無数の傘が開かれ、進んでいく。そして開かれた無数の傘は、その先端を差し向けられて無数の粉雪をちらつかせる白く薄明るい曇天は、そしてどこかを目指して雪のさなかに歩いていく無数の〈ひと〉びとは、「あはれむやみにあかる」いのである。

 

こう書いています。

 

 私がこれらの解釈を読んで悩んだのは、「むやみにあかるい」のは、「雪」だろうか、「傘」だろうか、ということです。最初はこの歌に他者の存在を読み取れなかったので、「あかるい」のは自分自身がさしている「傘」(通常視界には入りにくい)ではなくて目の前にある「雪」であると考え、だからこそ一面の雪景色(not 都会)と考えたのですが、これらの鑑賞文を読んでいると、「傘」があかるい、という読み方が正しいようにも思えます。雪が舞う中、傘をさして歩く人たちとすれ違う。暗い冬の曇天の中、色とりどりの傘がむやみにあかるい。この人たち、今目に映るたくさんの見知らぬ人たち、皆が「生きて負う苦しみ」を持っているなんてとても信じられない、という読み方です。

 

 うーん、でも、もし「あかるい」のが「傘」だったら、雨ではなぜいけないのか?

 

雨に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ

 

仮にこう変えたとしても、意味は通じます。「雨」=「降り注ぐ苦しみ」、っていう解釈はそれほど突飛じゃないし、だから皆傘をさして苦しみから身を守る。雨は降り続くけれども、色とりどりの傘は明るい。そのあかるさに、「生きて負う苦」を疑う、と。

 もし「雪」が「都会的なスタイリッシュさ」だとしたら、もっとキラキラした読み方もできると思う。都会で降る雪は珍しく、雨よりも美しい。儚く舞い散る白い雪、そして色とりどりの傘の明るさ。「ここに苦しみなどあるのだろうか」。

 だけど私は、ここで詠われている「雪」はそんなふうに「雨」に置き換えられるようなもの、あるいは雨よりもキラキラ美しいものという意味じゃないのでは、って思うんですよね。

 

 この「雪」は「雨」じゃない。儚く舞い散り、傘で防ぐことができるようなものじゃない。重くどこまでも降り積もり、全てを明るい白で覆いつくしてしまう、圧倒的な「苦」だと思う。

 花山周子は

 

近代以降の道路や歩道というものを思い浮かべている。つまり、この人にとっての日常の場所がここにある。

 

と書いています。だからこそ、それが「日常」であればあるほど、そこにあるのは「雪」が日常の泥臭い苦しみである光景な気がします。

 そういえば

 

あたたかき毛糸のような雪ふればこの世に不幸などひとつもない

(杉崎恒夫)

 

と杉崎恒夫は詠んでいました。この歌では「雪」は「あたたかき毛糸」のようなふわふわの優しい雪だと思うんですが、小池光の詠う「雪」は、もっと重たくて日常にべっとりと貼りついた、雪かきするそばから絶え間なく降り積もっていくような、どうしようもない、取り除きようがない「苦しみ」だと思うんです。それでも、「生きて負う苦をわれはうたがふ」と思わず感じてしまうそのひと時の「むやみなあかるさ」だからこそ胸に迫るのかなって思いました。

 あと、私の個人的な感じ方ですけど、この人は今雪の中に一人ぼっちで立っているんだと思ったんですよね。だから都会でもないし、「あかるい」のは「傘」でもないって思ったの。「雪」、つまり苦しみの中にたった一人で閉じ込められているにも関わらず、その苦しみの根源を「あはれむやみにあかるくて」と詠ってしまう、瞬間風速的な幸福がそこにあって、生きることで負うべき苦しみなどあるのだろうか、という一種の悟りが下りてくるわけです。だけど、それが永遠には続かないことは分かってるんだ。

 

 ところで吉田隼人がこの歌を紹介しているコラムのタイトルは

月刊 吉田隼人 2月号:雪が降ったら傘をささねばならない(のか?)

であり、末尾に

 

 人間の「生きて負ふ苦」を、「雪が降ったら傘をささねばならない」というどうしようもない正しさを、この異様なあかるみのなかで「雪が降ったら傘をささねばならない、のか?」と疑ってしまう〈われ〉の当惑した姿は、正しくどうしようもない人間の存在そのものである。(了)

 

と書いています。

 雪が降っても傘をささない人はたくさんいるでしょう。体に乗った雪はただ振り払えばいいし、上述のように傘をさしても傘に雪が積もるだけだし、足場が悪いのに片手が塞がるのは不便だし、そもそも雪かきの時に傘なんかさしてられないし、雪が降っても傘をささない人はたくさんいると思います。だから、「雪が降ったら傘をささねばならない」ということが、別に「どうしようもない正しさである」、とは思いません。

 もしかしたらそれも踏まえて「ここは都会である」と考えた方が自然なのかな。雪が髪の上で溶けてしまうから、傘をさして身を守るのだと。確かに私の読みだと、「傘」をさす必要がない、という指摘はあるかもしれない(個人的には、上述のように本歌に対して「傘」で返していると考えているのですが)。

 でももしそうだとしたら、やっぱり「雪」が「苦しみ」であることを知っている人が都会で詠んだ歌と捉えた方がしっくりきます。私のふるさとでは雪は重く降り積もる苦しみそのものだった。傘をさすこともできずに絶え間なく雪かきをした。でもここでは、人々は鮮やかな傘をさし雪から身を守る。雪は地面で儚く溶け、決して積もることはない。ここに「苦しみ」などないのではないか、って感じです。

 まあー、この読み方だと「オラ東京へ行くだ」みたいになっちゃいますけどね(笑)。

 

 もしかしたら「正解」がどこかにあるのかもしれないけど、もし間違いであったとしてもこの歌については自分自身の解釈を大切にして、大切に愛唱したいと思っています。とても好きな歌なので。

 

 

みだれ空より舞い降りしこの雪よ兜率の天の食となるべし (yuifall)

宮沢賢治『永訣の朝』

 

 

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