山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
桝屋善成
なかぞらに声の伽藍を建てむとし幾千の蝉啼きせめぎあふ
土手脇に首のねぢれた自転車がこゑを失ひ捨てられてあり
蝉が鳴いている、とか、自転車が捨てられている、というだけの情景がここまで詩になることに感動しました。以前『ぼくの短歌ノート』の「ドラマ化の凄み」の章で紹介されていた大西民子の歌を思い出しました。この人の歌も、何でもない光景をドラマに変えてしまう力があるなぁと思います。
解説には「廃」そして「狂」がキーワードである、と書かれており、
遠景の山なみ近景のクレーン/夢のままにて朽ちてゆくもの
あまりにもはだかの空気が包むからぼくらは狂ふ手前まで来た
という風に詠まれています。
その一方で、美しい相聞歌も多数引用されます。
匂ひたつ藤のひと房触れがたく夜のをみな思はしめたる
「触れ難い女性」のイメージは今まで「百合」だったのですが、「藤」の清楚な感じもいいですね。
妻あての不在配達通知書をゆふばえ冴ゆるポストゆ出しぬ
仕舞ひ湯のどこかせつなき温さもて君の心をつつみたく思ふ
という歌からは「妻」がおり、妻への恋歌なのかな?とも感じるのですが、上述の「藤」の歌や
プール帰りに化粧(けはひ)落して我が部屋を訪ひたる君の額のさざなみ
からは、妻ではない女性のような気もします。化粧を落として額に「さざなみ」があるってことは若くない女性なんだろうし、奥さんと読めなくもないのですが、奥さんだったら「我が部屋を訪ひたる」って表現使うかなぁ。この歌からは、別々に住んでいる、でも「化粧落して」訪ねられるほどごく親しい間柄の若くない女性がいる、という感じがします。相手が誰なのかは歌集全体を読めば分かるのかもしれませんが…。
それにしても、
雨傘をすこし斜めにさしながら口づけすればうたげの果てん
このような美しい相聞歌を捧げる相手が愛人だとちょっとがっかりなので(勝手ですけど…)、やっぱり奥さんだったらいいなぁ、とか思いながら読んでしまいました。
雨傘を投げだしきみを抱くように紫陽花の枝手折りておりぬ (yuifall)