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現代歌人ファイル その47-仙波龍英 感想

山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

仙波龍英 

bokutachi.hatenadiary.jp

ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ

 

 この人の代表作としてよく目にするのが、『短歌タイムカプセル』で紹介した「PARCO三基を墓碑となすまで」の一首とこれです。

 この歌、しばらく全然意味分からなかったんですよね。寺山修司みたいに、多分母親に対して屈折した何かがあるのだろうとは思ったのですが、「はは」というひらがなを使うことで「母」の死のイメージに哄笑を重ねているのだろうな、ということくらいしか感じ取れず、おそらく一般的には慕うべき「母」の死を嗤うという毒は読み取れても、そんなに面白い歌かなぁ、ってずっと思ってた。そして、それは自分の中に「母親」に対するある種不可侵なイメージがないからかもしれない、と考えていました。

 

 ですが、北村薫の『北村薫のうた合わせ百人一首』という本を読んで、不見識に恥じ入りました(笑)。本当は原文を引用したいのですが、この章に関しては全体に興味深い部分が多すぎて逆に引用しづらいです。。そんなに長く人の本の文章をブログに書いちゃっていいのかも分からないし…。というわけで簡単な説明にとどめますが、

 

・はははははははははははは、を短歌の韻律で読めば「ははははは ははははははは」と五・七になる

・しかしながら、意味に合わせれば「母母母母母母」であり、この真ん中の「母」を韻律が真っ二つに切り裂く

・それでいて、短歌としては最後の七音に欠落があり、「母死んだ」と五音で締めている

 

と書いています。さらに、この母親(あるいは両親、家族)との葛藤の原因となったであろう彼の生い立ちについても書かれています。これも簡単に説明すると、

 

・仙波龍英には年の離れた姉が2人いる

「東大の医学部だけが大学よ」ふたりの姉にも接点はあり

なんて歌もあり、相当強烈な姉のようです)

・さらに母親の違う姉がもう一人いることを後から知る

さんにんも魔女がゐるかと少年は麦田のトンネルぬけゆき震ふ

と詠んでいます)

・女の子しかいなかった裕福な家庭に産まれた、年の離れた末っ子長男であった

・本名は「龍太」だが、筆名では「太」の字を消している

・生年月日は昭和二十七年(辰年)、三月三十日(早生まれ)

 

これだけでも、跡取り長男として過大な期待を背負わされて生きてきた辛さが伝わってくるようです。「母死んだ」の歌の背後に見える泣き笑いは、ようやく解放された、という安堵感と、今更解放されても、というやるせなさが渦巻いているようにも思えます。

 

 とまあ、この歌の解説だけで十分面白いのですが、この章ではさらに、藤原龍一郎との出会いも描かれています。この本の最後に藤原龍一郎穂村弘北村薫の対談が載っているのですが、この章について触れられていてそれがすごく面白かったです(笑)。対談の内容が面白かったので、ごく一部、穂村弘の発言内容だけ引用します。(発言の主旨としてはほとんど北村薫が本文中に記載した内容をなぞっているだけなのですが、より説明的なので、引用するにはこちらの方が分かりやすいかなと思いました)

 

二人には共通点があって、名前に「龍」の字がついていると。片方が「龍英」で、片方は「龍一郎」。これは彼らが辰年だからということなんですが、藤原さんは本名だけど、仙波龍英は本名は龍英じゃないんです。「仙波龍太」なんですって。「太」というのは「太郎」の「太」だから、つまり長男であることを示す。で、龍一郎の「一郎」も長男であることを示す。つまり二人は辰年に生まれた一番上の男の子同士として出会う。もう運命的な感じに、どんどんなってくる。しかも、龍太のほうは、自分が長男であることを拒んで、名前から勝手にその「太」を消す。これが二音分の「はは」の欠落と響き合う。で、その定めを受け入れた龍一郎と拒んだ龍太がここで運命の出会いをするというシーンを、北村さんが、何て書いてるかっていうと、<双龍の出会い>!

 

 もともと、仙波龍英は「氷神琴支郎」と名乗っていたそうで、藤原龍一郎は本名を知らず、「氷神さん」と呼んでいたそうです。名前ばかりか苗字も本名を使っていなかったんですね。北村薫はこう書いています。

 

藤原の名を知った時、仙波は因縁で慄えたに違いない。双龍の出会いを運命と思ったろう。氷神琴支郎という仮面の下に、短歌が手を伸ばして来たのだ。

 

 この本面白いのでぜひ読んでみてください。

 

 毒々しい悪意に満ちた歌が多い、と評されており、

 

ひとつだからいけないのだらう千こえる首ならべれば美しからう

 

なんて歌もあります。48歳という若さで亡くなられているとか。

 それにしても、「一人殺せば殺人者で百人殺せば英雄」なんて言いますが、百人を殺す、というのは戦地におけるいわば大量殺人のことであって、この歌の「千こえる首」のイメージとはあまり響き合いません。「首ならべる」わけですから、一人ひとりをそれなりに大切な人格として扱っているわけですよね。その美しさは、つまりは兵馬俑みたいな感じなのだろうか、と考えました。「千」に個々の人格を見ている感じが、美しくもあるし恐ろしくもあります。

 

 『うた合わせ百人一首』を読んで、本人の人生のドラマ感のすごさもありますが、改めて、本人の人生を知らず、歌集を読まずに一首だけ読むと読み切れないなぁ、って考えさせられました。まあだからといって、歌集を読むまでもう感想なんて何も書かない!ってやり方は私にはできないのですが、真摯に歌を読もうと思ったら一首読みではだめなのだろうと思ったりもして…。難しいですね。

 

 

独房の中のぼくにも雪は降るいつか記憶が殺してくれる (yuifall)

 

 

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