左右社 出版 山田航編著 「桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表」 感想の注意書きです。
服部真里子②
「花」と「暴力」の組み合わせのモチーフを好む、と解説にありました。
酸漿(ほおずき)のひとつひとつを指さしてあれはともし火 すべて標的
なんか、確かに「花」と「暴力」ですね。というかそもそも酸漿でほおずきって読むこと初めて知ったよ…。鬼灯は知ってたけど…。
地方都市ひとつを焼きつくすほどのカンナを買って帰り来る姉
これも。この場合はやっぱり赤の「プロフェッサー・ウェント」「ジーン・コープ」「トライアンフ」などなど、なのかな。オレンジの「ベンガル・タイガー」と「カーディナル」かわいいですけど♡
そんな中に
どこをほっつき歩いているのかあのばかは虹のかたちのあいつの歯型
ってのが混じっててちょっと萌えた(笑)。
歌集のあとがきには「人が人と関わることは本質的に暴力だと思っています」とあるそうです。誰かを自分の思い通りに変えようとすることだと。そうなんかなぁ。分からん。人が人と関わることの本質なんて私には論じられる気がしませんが、とはいえ、相手の思い通りに変わろうとするあるいは変われないことで苦しむのは自分自身の心の作用であるような気がしないでもないな。
ただ、解説では
服部の歌に影を落とし続けてきた「暴力」とは父性のことなのかもしれない。
とあり、現実の父親というよりもある種のpaternalismをイメージしました。私の人生に介入しないで、っていう。
そういえばDNCEの『Unsweet』で
僕はきみの敵じゃないよ、きみを変えたりしないから
って歌詞あったなー。
Unsweet (DNCE) 和訳 - いろいろ感想を書いてみるブログ
でも、誰かに変えられるって悪いことかな。それって暴力だろうか?そもそも、自分がこだわっている、変えたくない自分って本当に正しいのでしょうか。正しいというか、それが本当に「自分」なんだろうか。どんなに強制されても変えられない、「あー、これ変えちゃったらもう自分じゃねーわ」みたいなところももしかしたらあるのかもしれないけど、それって他人に(あるいは社会に)変えようとされなければそもそも気づかない気もするし。逆に他者から見てどれだけ醜悪であっても、「自分」と信じるものにしがみつかざるを得ないこともありますし。
でも、「人が人とかかわることは本質的に暴力」と言いながら、「暴力」と「花」のモチーフを詠うというのは、どこか人間関係に希望を持っているってことなんじゃないかなって気がします。月並みなイメージかもしれませんがやっぱり「花」は美しくて儚く、慈しまずにはいられないものだろうから。
失われた海よ蘇鉄は島に満ち白い裸身を過る疵口 (yuifall)
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