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読書日記 2024年11月20-26日

2024年11月20-26日

・かおもじ『難解な腐女子~生命の数だけ性癖はある~』1,2巻

・D・キッサン『神作家・紫式部のありえない日々』5巻

ミラン・クンデラ千野栄一訳)『存在の耐えられない軽さ』

伊藤計劃『ハーモニー』

ウィリアム・ゴールディング(黒原敏行訳)『蠅の王』

ガブリエル・ガルシア=マルケス野谷文昭訳)『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』

 

以下コメント・ネタバレあり

・かおもじ『難解な腐女子~生命の数だけ性癖はある~』1,2巻

 楽しそうだなーと憧れつつもオタクとしてXで交流もしていなくてオタ友もいないので(リアルでもネットでも)完全壁打ちなのですが、単にSNS無精ってのもあるけど、性癖不一致めんどくさいからってのあるよな…と思いました。基本的に超雑食なので過激固定派とはお互い関わりたくないし、しかも雑食とはいえ攻の変態化セコム化や受モテモテ展開などのキャラ変嫌いで解釈違いは多いタイプなんで…。まあでも二次は所詮全て妄想ですからね。地雷なんておこがましいとは思うよ、ほんと。

 

・D・キッサン『神作家・紫式部のありえない日々』5巻

 天皇と彰子にカプ萌えするのはいいとして、まあ実際夫婦だしご懐妊もするのでその辺の事実があるのはそりゃそうなんですが、「ゆうべはおたのしみ」とかいうのキモいな…と思ってしまった。やっぱnmmnは自粛必要じゃないですか?あとどこまで史実なのかなーと思いながら読むの楽しいですね。実際はあんな優しい世界じゃないだろうけどね…。

 

ミラン・クンデラ千野栄一訳)『存在の耐えられない軽さ』

 ものすごい昔に映画見たことがあったのですが意味が分からなかった記憶があります。小説読んで、これを映画にするのは無理あるなぁ、と思った。なぜならちょくちょく作者の視点で登場人物がキャラクターであることを強調するメタフィクションな構造になっているし、作者の持つ哲学的・政治的思想がバックグラウンドに通奏低音のように流れている小説だからです。小説でしか表現できない手法というか。だからこそ面白いと思った。主な登場人物は4人で、女たらしの外科医トマーシュとその妻テレザ、トマーシュの愛人サビナと彼女の別の愛人フランツです。トマーシュは“テレザより大切なものはない”、“テレザを傷つけることはできない”として政治的には高潔に生きるのですが、愛とセックスを別物だと思っているので女と会うことはやめられません。一方テレザは幼少期~思春期に自分の女性の肉体を大切に扱われてこなかった経験から、愛する人にとってたった一つのかけがえのない大切な身体になりたいと熱望しているので、嫉妬に苦しみます。サビナは愛をゲームのようなものとしか思っておらず、フランツを簡単に捨て祖国を離れて転々とし、自分の人生や過去をきれいごとで飾られるのを拒みます。フランツは常にサビナの目線を意識して生きることをやめられず、若い恋人の望みに反してカンボジアに活動家として渡りバンコクで命を落とします。そんな4人の人間関係に“プラハの春”が影を落とし…、みたいな。

 トマーシュはテレザのためにスイス移住を諦め、医者であることもやめ、田舎に引っ越します。テレザは「私はあなたの重荷になっている」と言う。でもトマーシュが女遊びをやめられない間、テレザは自分の存在の軽さに耐えられなかったのではないか。最後2人で田舎に移住しトマーシュは必然的に女遊びができなくなり、自分に使命などなく自由であること、彼女に使命などなく自由であることが嬉しいと言います。これは“軽い”ということ?サビナはフランツの愛を重荷に感じ、彼を捨てます。そしてその時彼女が感じたのは存在の耐えられない軽さだった。

 サビナは低俗なもの、キッチュを憎みます。自分の芸術を鑑賞される際に背景として祖国について語られるのを嫌い、経歴を隠すようになります。これは、薄っぺらな背景をつけるくらいならうわべだけ見ていて構わないということなのかもしれない。でもキッチュを拒絶することは、美しさの裏にある糞便を引き受けること、“重さ”を持って生きることではないのか?テレザは男女の愛は犬へ向ける無償の愛よりも価値が低いと感じます。犬は≪天国≫から一度も追い出されたことがなく、身体と心という二元性を知らず、汚れとは何かを知らないと。身体と心という二元性を知り、汚れを知ってしまえば、糞便を隠し“キッチュ”であらざるを得なくなるからだろうか。しかしそれを隠そうともしない母親をテレザは憎んでいます。

 カンボジアで死んでいく人たちに残されるものは、黄色い肌の子供を両腕に抱いたアメリカの女優の写真だけだという。それがキッチュなのだと。我々はテレザの絵を見る時、チェコのことが理解できないのならばチェコ出身という背景を重ねて見るべきではないのかもしれない。カンボジアについて考えるとき、アメリカの女優の微笑みの裏にカンボジアで死んでいく人たちの死体を直視すべきなのかもしれない。しかし私たちは美しい女性に生理があることを知りながら、サビナの母親のように生理の血で汚れたナプキンを隠そうともせず恥じらうこともなく子供の眼前に晒す行為を憎むだろう。晒すべきものと隠すべきもの、キッチュと真実、その境界はどこにあるのだろうか。

 なんかすごい本読んだなーと思う反面、理解しきれてないというか、これ多分理解しようと思ったら論文レベルに読み込まなきゃダメじゃないか?と思った。結論としては、なんかすごかった…みたいな感じです。

 

伊藤計劃『ハーモニー』

虐殺器官』面白かったので買ったのですがこれは…。これは、つまらないというわけではないのですが、既視感ありまくりの話でした。こういうのすでに何度も読んだことある!って感じ。完全にゼロ年代前半に流行したラノベorサブカルの空気感です。とっさに連想したのは京極夏彦『ルー=ガルー 忌避すべき狼』(2001年)と森博嗣スカイ・クロラ』(2001年)、西尾維新クビキリサイクル』(2002年)でしたが、内容的にはいわゆる“セカイ系”なので、セカイ系3大作品と言われている作品群の初出を見てみると(どれも内容は知らない)『最終兵器彼女』(高橋しん)は2000年、『イリヤの空、UFOの夏』(秋山瑞人)は2001年、『ほしのこえ』(新海誠)は2002年とやはりいずれも2001年前後です。この『ハーモニー』は2008年なんで、完全に後出しだよね。2024年に読んでしまい、少女×SF×サイバーパンクセカイ系という素材の古びやすさを感じました。あー、これ昔流行ったやつだ…って感想にしかならなかったもん…。ラストも『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)まんまじゃん。これで賞取ってるとか驚きですが、まあそもそも個人的にセカイ系の話が好きじゃないんで好みの問題かもしれません。

 

ウィリアム・ゴールディング(黒原敏行訳)『蠅の王』

 近年世界人口が増えているうえに地球温暖化が進行して食糧難の時代は近いような気がするし、日本は食糧自給率が低いのに少子高齢化で国力が落ちて、金がなくなれば食べ物を輸入できなくなることを考えると将来は食べ物なくなるのではないかという思いに毎日取りつかれていて、その時にこれ読んで、食べ物取れる奴が結局偉いよな、とか思ってしまいました。これ、“外の世界”が存在することが分かっているから救助を求めることを最優先にするラルフとピギーが理性的に見えるけど、 “外の世界”は戦争中で助けなんて来ないかもしれないと思えば「何よりも狼煙を上げつづけなくてはならない」なんてルールはあんまり意味ないように思えるし、まあ現実問題“外の世界”なんて存在せず誰も助けには来ないわけだから、今いる環境の中でサバイブできる人間が力を持つのは当たり前だと思います。てかそもそも狩猟班に火の管理を任せるべきじゃなくない?狩猟班には食糧確保に専念させて、他のメンバーで火の管理やその他のメンテナンスをすべきじゃない?狩猟チームに火まで任せたら他のメンバーいる意味ないじゃん。獲物取れて火も持ってたら他の奴要らんだろ。実際最終的に狩猟チーム以外は駆逐されたし。

 多分、“外の世界”ではラルフやピギー、サイモンの方がホワイトカラーワーカーで高給取りになるんだろうと思うんですよね。ジャックとかロジャーはブルーカラーワーカーとして使役される側で。でも実際に食べ物なくなったら金なんて何の意味もなくなるし、物理的にパワーがある、人に取り入るのがうまく好かれやすい、カリスマ性がある、状況や空気を読むのがうまい、人や動物を殺すことを厭わない、などのサバイバー体質の人だけが生き残っていくのではないかと思わされました。いいとか悪いとかじゃなく、状況によって生き残りやすい性質って違うと思う。この島でのサバイバルライフにおいて全員に(その辺に自生してる果物以外の)食べ物を供給することができないラルフではなく豚を殺すことができるジャックが主導権を握るのは何も不思議じゃないし、でもそういうキャラクターが君臨する世界では殺人や暴力が横行し、力による支配という構造になるだろうなと思います。それがよくない、文明的でもないし理性的でもないと思うなら、そう思う側がみんなに食べ物を供給できないとどうしようもないよね。現実でも、貧困層が増えて食うに困る人が増えれば暴力が横行する世界になっていくと思います。この小説では、もちろん殺人は倫理的に許されないですけど、でもそれ以前の段階でラルフやピギーはジャックたちにもっと敬意を払うべきだったと思う。失敗を責めるだけじゃなくてさ。現実でも、食べ物を作ってくれる人、基本的な生活を支えてくれるエッセンシャルワーカーに敬意を払わず正論だけまくし立てるホワイトカラーワーカーがのさばるような政治をしてると、抑圧された側がどんどんアナーキーになっていくのではないか?正論じゃ腹は膨れないのよ。ピギーなんて唯一火を起こせる道具である眼鏡を持ってて「知性の象徴」とか言われてるけど、眼鏡ないとなんもできない喘息持ちだし、こういう人に口だけ出されたら誰だってイラつくだろ。自分はどっちかいうとこっち側の人間だから余計この人の態度が鼻につくと感じました。頭でっかちでサバイバルライフでは役に立たない奴はもっと腰低く生きないと疎まれるでしょ。小説が発するメッセージとは真逆の解釈かもしれないけど、あの状況で理性だの知性だのしゃらくせえって思いますよね(もちろん殺人を許容するわけじゃないけど)。

 

ガブリエル・ガルシア=マルケス野谷文昭訳)『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』

 かの有名な「大佐に手紙は来ない」「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」などが収められた中短編集です。「エレンディラ」は、水に手を触れると色が変わって…というエピソードだけ知っていたのですが、これは『トリビュート百人一首』で佐藤弓生

 

忍れど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 

 

ひとといるまひる わたしの水だけがルビーの色に変わる いつから (佐藤弓生

 

に現代語訳していた際にこのように引用していて知りました。

 

 ガルシア=マルケスの小説「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」では、恋する若者がガラスのコップや瓶に触れるとその色が青く変わり、感づいた母親に「相手は誰なの?」と問われる。恋は色そのものより、色の変化で喩えられるべきかもしれない。

yuifall.hatenablog.com

 なぜかずっとこの「若者」はエレンディラだと思い込んでいたのですが読んだら違ってました。エレンディラに恋した少年の方でした。

 個人的には、とても短い話の方が好きでした。「火曜日のシエスタ」「巨大な翼をもつひどく年老いた男」「光は水に似る」などです。中篇は、途中でこれいつ終わるんだろう…とか思ってしまった。長編の『百年の孤独』にはそう思わなかったのでなぜだか理由はよく分かりません。一読しただけでは理解できない話もあったのですが、巻末の解説がとても詳細でよかったです。