「一首鑑賞」の注意書きです。
254.忘れやすくなるはお互ひさまなれどお互ひを忘れるまでにいたらず
(外塚喬)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
やり切れない気持ちと、笑ってもいいのかな…、みたいな気持ちが混在してくる歌です。サラリーマン川柳みたいな…。いや、綾小路きみまろかな。現状ではまだ「おい、アレ」とか「ほら、あの人よ」とか言い合ってるレベルだけど、お互いが分からなくなったらいよいよ…、みたいなね。鑑賞文には
大事にはならないが、なにかと忘れやすい。それでも、「互ひ」に「互ひ」のことを忘れるというところまでは、まだ、至っていない。そのことにすこしく安堵する。
とあります。「安堵」なのかはよく分からない。いつか「お互いを忘れる」ことも含めて戯画化しているような雰囲気もあります。ただそんな風に綾小路きみまろ的な読み方してもいいのか、この一首だけじゃよく分かりません。
最近ヨルシカの『忘れてください』という歌の歌詞を見て、なんかやだなって思ったんですよね。これはマジで個人的な感じ方なんですけど。米津玄師『Lemon』でも「忘れてください」って歌詞あったけど、まあどちらも、その気持ちはとても分かるんです。愛する人がいて、自分がいなくなって、そしたらそのことで苦しまないでほしい、僕のことなんて忘れて幸せになってほしいと。多分若いからなんだと思う。愛する人に未来があると思うから。でも、そうじゃないと思うんだよな。忘れられないから辛いけど、忘れたくないのに忘れてしまうことだって辛いし、忘れてしまうのはあなたが願ったからではなく、時間が経ったからなんだよ。しかも、例えばですけど、18歳で結婚して60年間連れ添った夫に78歳で先立たれたとして、夫は自分が死ぬとき妻に「自分を忘れて幸せになってほしい」なんて願うだろうか。絶対にないでしょ。じゃあこの60年、私の人生一体なんだったの、ってなるし、そっから夫を忘れたらもうそれは認知症だろ。例え何歳であっても、私が何を幸せと思うかはあなたが決めることではないし、あなたの何を私が覚えていて何を忘れてしまうかは、私でさえ決めることはできない。そもそも愛する人の幸せを願うからって相手に何を望んでもいいわけじゃないじゃん。自分にコントロールできないことを望まれるのはしんどいよ。父親が息子に「お前の幸せのために、東大行って大手企業に就職し美人で料理のうまい嫁さんを貰い3人以上の子供を持ってほしい」とか望むことはできないじゃん。私は、恋人に「自分を忘れてほしい」と願うことはそのレベルの望みだと思うし、傲慢で押しつけがましいと感じてしまう。もっと身も蓋もなく言えば自己満というか。だって忘れてほしいと願う方は一見献身的に見えるけど、その実何も犠牲にしてないわけだし。まあせいぜい、将来他の誰かを好きになれそうなら自分の思い出に気兼ねせずともよいと願うくらいでは。それでもそれを伝えること自体自己満で相手を傷つける可能性はあると思うけど。
そんな思いでこの歌を読んで、脱力したような背筋が引き締まったようなとても不思議な感覚になりました。忘れたいか忘れたくないかに関わらず、お互い生きてて愛情もあって一緒に暮らしていて目の前にいて、それでも忘れてしまうことはあるんだよなぁと。介護とか認知症に関する歌、時々見るのですが、本当にやり切れない感じがするものから「ボケ」をどこか戯画的にしているようなものまであり、どう受け止めていいのかなって迷うことがあります。当事者の方がもっと素直に読めるのかもしれないとも思ったりします。自分はまだそういうものに対する距離感がつかみ切れてないから、びびってるんだと思う。
この歌も、山下翔は「不穏さ」や「いずれ来ることのおそろしさ」を読んでいて、自分自身の「認知症」への距離感もそんな感じだと思う。でも一方でこの歌には、「夕食に何を食べたか忘れるのはまだ大丈夫でも、食べたこと自体を忘れるのはヤバい」みたいな一種定型化した笑いの要素もあるように感じます。「まだあなたのことは忘れてないわー」っていう。
AIに僕らはいつか置き換わり永久に不毛に戦うだろう (yuifall)