「一首鑑賞」の注意書きです。
248.降りては来ない あふれるのよ 遠いはかないまなざしからきっとここへ
(井上法子)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
一読しただけでは意味が分からなかったのですが、鑑賞文によれば
ひとつまえに〈きみには言葉が降ってくるのか、と問う指が、せかいが雪を降りつもらせて〉といううたがあって、だからここで「降りては、来ない」もの、そして「あふれる」ものとして、「言葉」をおもった。
ということだそうです。
確かに、自分の中にない言葉は出てこないから、言葉は降ってくるものではなく、あふれるものなのかもしれない。でも「あふれる」のもわりと贅沢な感覚で、そう感じる時もあるっちゃあるけど(主に二次創作の時ですけど)だいたいの場合は「引っ張り出してくる」に近いかなぁ…。これが才能の差なのか?「遠いはかないまなざしからきっとここへ」と言われてしまうとひれ伏すしかない感じがしますね。
その前の「きみには言葉が降ってくるのか」というのは誰の問いなんだろう。もしかしたら歌集を読めば分かるのかもですが、「指が、せかいが雪を降りつもらせて」となると神様的な存在か?と考えてしまった。そういう壮大な話なのか?それとも誰かに言われたことなのか?
どうして神様的な存在を真っ先に考えたのかというと、おそらく『桜前線開架宣言』で山田航が井上法子を「巫女」に例えていたからだと思われます。そうなると、「言葉が降ってくる」と言われても納得できるし。ご神託みたいに。でもそうじゃない。ご神託じゃなくて、「あふれるのよ」と言っている。そして「遠いはかないまなざしからきっとここへ」。
ここでまた分からなくなります。「〇〇から〇〇へ」と言われたら、「降りてくる」の方がしっくりくる。でも「あふれる」と言っている。つまり、「言葉」は自分の中からあふれるわけではないんです。「地中から水面へ」あふれるように、「遠いはかないまなざしからここへ」「あふれる」。それはやはりご神託みたいな、というか、自分より遥か大きい存在から託されたもののように感じます。
この「遠いはかないまなざし」の持ち主は「問う指」の持ち主と同じなのか違うのか?「指が、せかいが」というのは、言い換えなのかそれとも並列なのか?(つまり、「指が、せかいが」「問い」「雪を降りつもらせる」のか、「指が問い」「せかいが雪を降りつもらせる」のか?)それは、歌集を読めば分かるのでしょうか。それとも分からないのでしょうか。それすら全然分からないのですが、それでもこの歌に心惹かれるのは、もしかしたら羨ましいからかなぁ、と思いました。「遠いはかないまなざしからきっとここへ」言葉があふれる、なんて、感じてみたいものです。
フィクションじゃインフレしてるIQで なければEQでもいい殴れ (yuifall)