「一首鑑賞」の注意書きです。
209.どうしたら枯れるのだろう君といた五月の緑のような記憶は
(本田瑞穂)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
これは、もともと
夕映えはあわぁいあわいびわの色いまでは思い出せない味の
という歌の「一首鑑賞」コーナーで引用されていた歌です。私はあらゆるゼリーの中で長崎県の「茂木びわゼリー」が一番好きで(2番目は梅ゼリー)、「びわ」を出されてついリンクを踏んでしまったのですが、そこで冒頭の歌が紹介されていました。
同じ歌集に、
どうしたら枯れるのだろう君といた五月の緑のような記憶は
という一首がある。
「忘却は、人間の救ひである」とは太宰治の「お伽草子」の、浦島太郎の一節にある言葉だが、人間には忘れられないこともあれば、けして忘れまいと思いつつ、忘れてしまうことだってある。
そして、大切なことほど長く覚えている、とは、必ずしもかぎらないのだ。
大切なことを思い出せない、あるいは忘れたいのに忘れられない。どちらも詩歌ではよくあるテーマですが、「君といた五月の緑のような記憶」という、とても瑞々しく美しいようにうつるものを「どうしたら枯れるのだろう」と感じてしまう切なさが心に残ります。おそらく、私自身はあまりこういう風に思わないからとても新鮮に感じるのかもしれないと思いました。自分にとっては、今関係が良好な人との過去は忘れたいものではないし、逆に今関係が良好でない人との過去を美しかったとは感じないからです。でもよく考えると、決して感情的に行き違ったわけではないのに(お互いに愛情はあるのに)一緒にいられなくなったということはあり得るわけで、そういう相手のことなのかもしれない。
でも、たぶんとても普遍的な感情なんだと思うんですよね。もう終わってしまったか、どうすることもできないような行き止まりの人間関係の中にいて、美しい過去に縋りつきそうになる自分に「あの記憶はどうしたら枯れるのだろう」と自問自答する。失ったもの、もう取り戻すことができないものだからこそ「五月の緑のように」見えるんだということは分かっているはずなのに。なんか、実体験を超えたところで言葉としてぐっときました。
そして、「いまでは思い出せない味の」「あわぁいあわい」ものって、自分にとってはあけびかな、って思った。あの紫もある意味トワイライトカラーのような気もする。
あの夏をゥチら超えらんなぃのかなぁ。。。無敵の笑顔のままだねキミゎ (yuifall)